したんですか。僕の仕事はもうすんだのですか」
 道夫は、すこし皮肉がいいたくなってそういった。
「うむ、失敗だッ」
 怪紳士は、かんではきだすようにいったが、そのときしまった、そんなことをいうんじゃなかったという顔つきになり、道夫の方に鋭い目を走らせ、
「いや、一度や二度じゃうまくいかないだろう。それはそうと……」
 と怪紳士はいいかけて、更に自分の感情を殺しながら、
「僕はこれからちょっとでかけなければならんが、詳しい話は帰ってきてからにするとして……、道夫君も疲れたことだろう。ちょうどコーヒーが沸《わ》いたから、甘くしてごちそうしようね」
 そういって怪紳士は、卓子《テーブル》の上に置いてある湯気の立っているコーヒー沸しを持上げ、銀の盆の上に並んでいた空のコーヒー茶碗の一つを道夫の前に置き、その中にこげ茶色の香の高い液体をついだ。
「砂糖とミルクはそこにあるから、好きなほど入れておあがり」
 そういって怪紳士は、もう一つのコーヒー茶碗にコーヒーをついで、自分の椅子の方に引寄せた。そして角砂糖を一つ入れると、がらがらと匙《さじ》でかきまわして、うまそうにのんだ。
「どうぞ、遠慮しないで……」
 道夫はすすめられるままに、自分の前のコーヒー茶碗に角砂糖を三つ入れ、それにミルクをたっぷり入れた上で、それをのんだ。たいへん甘い。道夫はつづけて、がぶがぶとのんだ。
 道夫は、自分がそれからコーヒー茶碗を下に置いたことを記憶していない。急に頭がぼうっとしてきたと思ったら、非常に睡《ねむ》くなった。これはいけないと思って叫ぼうとしたが、果して声がでたかどうか疑問である。
 道夫の気がつかないことが、それから後のその洋間においておこなわれた。怪紳士が呼鈴《よびりん》を押すと、二人の男が戸口から入ってきた。そして眠りこけている道夫の頭の方と足の方を持って、室外へ搬《はこ》びだしてしまった。
 後には怪紳士ひとりが残ったが、腕時計をちょっと見て何か考えていた。が、すぐ決心がついたと見え、紫色のカーテンとは反対の側の小さい扉をあけて、その奥に消えた。
 紳士はすぐ洋間へ引返してきた。そのとき彼は、薄い鼠色のコートを着、頭には同じ色の形のよい中折帽子をのせていた。部屋のまん中で立停《たちどま》ると、上着の内ポケットへ手を入れ、何物かを引きだしたと思ったらそれは一|挺《ちょう》のピストルで二つに折って、中の弾丸《たま》の様子を調べた。調べ終ると、ピストルを元のように直して内ポケットにしまった。それから彼は部屋をでていった。扉の鍵のまわる音がした。やがて彼の足音が、廊下を遠ざかっていった。そしてあたりは静かになった。
 玄関の方へ下りていったこの怪紳士の知らない或る出来事が、このかぎのかかった静かな部屋の中でおこなわれた。それは空虚になった暗《やみ》の中であった。部屋のまん中の、机の面よりやや高い空間に、ぼんやりした光があらわれた。
 それは一秒一秒と弱いながら明るさを増していった。そして光の面積が次第にひろがっていった。四十五秒たつと、その光りものは、一つの物の形となった。正面を向いて、身体をかたくして、じっと立っている洋装の若い女性の姿になっていたのだ。
 木見雪子の幽霊だ!
 まぎれもなく彼女の幻影である。ふしぎだ、ふしぎだ。生きているように見えながら、しかもはっきりしないその姿。これを誰しも幽霊といわないで何を幽霊と呼ぶべきであろうか。何故《なぜ》に雪子学士の幽霊がこの部屋にあらわれたのか、そのわけは分らないが、もしもこの部屋に誰かがいて、雪子学士の幽霊を落ちついて見たとしたら、その人はきっと一つの興味あることを彼女の姿の上に発見したであろう。それは雪子学士の着ているワンピースの服が、あっちもこっちも引裂け、甚《はなは》だしい箇所ではその裂目《さけめ》から雪子の青白い皮膚があらわに見えることだった。
 雪子学士の幽霊は、約二分の後に、つと両手を机の上にのばした。二本の白い手は、しばらく机の上をさぐっているように見えたが、やがてその手は、机上にひろげられた研究ノートをつかみ、そのまま持上げて自分の胸に抱きしめた。
 それから幽霊はそろそろと後じさりを始めた。やがて幽霊の身体は壁につきあたった。と思ったらその輪廓《りんかく》が急に崩れだした。身体が輪廓の方から内部へ向って溶けだしたように見えたが、最後に顔面だけが残った。が、やがてそれも崩れ溶けてしまい、雪子学士の幽霊は完全にこの部屋から消え失せた、彼女の研究ノート第八冊と共に……。
 怪紳士の留守宅に、おいて、このような奇怪な出来事が誰人にも知られずおこなわれている折も折、警視庁の捜査第一課はその主力をあげて三台の自動車に詰められ甲州街道をまっしぐらに西へ西へと飛ばしていた。いかなる事件が突発し
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