と怪紳士は鳩時計の方をちらりと見て「さあすぐ始めるのだ。こっちの部屋へきてくれたまえ」
怪紳士は道夫に文句をいう隙をあたえずに、先へ立って、さっさと紫のカーテンの奥に消えた。
「道夫君。早くきたまえ」
紫のカーテンの奥に何があるのだろうか、と、うす気味わるく足をはこびかねている道夫の耳に、怪紳士の強い声が聞えた。もう仕方がないと、道夫は覚悟をきめてカーテンをかき分けた。
それは意外なる光景であった。その奥部屋は四坪ほどの狭いものだったが、部屋はがらんとして中央に机が一つ、それに向き合った椅子が二個、たったそれだけであった。そして右の方に窓が一つそこから眩《まぶ》しいほどの光線が入っている。
「君は、こっちの椅子へかけたまえ」
怪紳士は、手前の椅子を道夫に指した。道夫はいわれるとおり腰を下ろした。椅子は板敷きのもので、道夫の足の先はぶらんと宙に浮いた。怪紳士はさっきから読んでいた雪子学士の研究ノートをひろげたまま机の上においた。それは道夫に対して文字があべこべになるように反対におかれた。
「それではカーテンをしめるよ」
「待って下さい。どうするのですか、僕は……」
道夫は不安にたえきれなくなって、遂に爆発するように叫んだ。
「君は何にも考えないのがいいのだ。カーテンを引けばこの部屋は暗黒になる。君はそのままじっと椅子に腰をかけていればいいのだ。なにごとも予期してはいけない。しかしなにごとかが起ったら君はおどろかずさわがず、つとめて心を平静に保って、向き合っていればよい。君から決して自分から働きかけては駄目だ。相手が何かいったら、それにこたえればいいのだ」
「相手というと誰ですか。あなたですか」
「いや、なにごとも予期してはいけないのだ……そしてもういい頃になったら、僕がもういいというからね、それまでは君は椅子から立上ってはいけないよ。分ったね」
「分りました。でも、いや、やりましょう」
道夫ははらをきめて、この怪紳士のいうことをきくことにした。今いやだといってみたところで、この怪紳士は道夫をゆるしてはなしてはくれないだろう。一見やさしそうに見えて、その実この怪紳士は一から十まで道夫の行動をしばっているのだ。この怪紳士の手からぬけだすのは容易なことでないと分った。
カーテンは、明るい窓に引かれ、室内はまったくの暗闇と化した。聞えるのは怪紳士の靴がかすかに床をする音ばかりであった。
道夫は、机の向うの空席の椅子に、かの怪紳士が腰をかけるのだろうと予期していた。ところが彼の靴音はその椅子の方へはいかず、道夫の背後を忍び足で通りすぎた。やがて紫のカーテンの金具が小さく鳴った。足音はそれっきり聞えなくなった。怪紳士はこの暗室からでていってしまったのだった。ぞっとする寒気が再び道夫の背筋をおそった。
(僕ひとりをこの部屋において、どうしようというのだろう)
不安が入道雲のように膨張していった。動悸《どうき》がはげしくうちだした。のどがしめつけられ、息がつまりそうである。道夫は一声わめいた上でこの部屋から逃げだしたい衝動にかられたが、なぜか足も腰もすくんでしまって自由がきかなかった。彼は催眠術をかけられた人のように、そのままじっとしているより外なかった。
五分、十分。……何事も起らない。部屋は完全なる暗黒である。五感に感ずるものは、ほのかなる香料の匂《にお》いと、そして大きくひびく道夫自身の心臓の音だけだった。
十五分……そして多分二十分も経《へ》た。道夫が椅子の上で身体をちょっと動かすと、ぎいっと椅子が鳴った。それはびっくりするほどの高い音をたてた。
三十分……もうたえられない。我慢ができない!
と、そのときだった。隣室の鳩時計がぽうっぽうっと、九時をうった。まだ九時かといぶかる折しも続いてどこかの部屋で、じりじりと電話の呼びだしのベルが鳴りだした。道夫はそれを聞くとすくわれたように思った。
受話器を取上げたらしく、返事をする声が聞えた。
その声はまぎれもなく例の怪紳士の声である。
「えっ、本当? もっとはっきりいって……うむ、それは重大だ。場所はどこ?……えっ、そうか。そうか。……よろしい、すぐでかけます……」
何事か重大なことがらの知らせが怪紳士のところへ届いた様子である。何事であろうか?
暗室の怪
ちょっと間を置いて、道夫の背後のカーテンが開かれ、部屋がすこし明るくなった。と道夫は怪紳士から、こっちの部屋へくるようにと呼ばれた。
放免《ほうめん》だ。暗室の怪業から放免されたのだ。道夫は大よろこびで椅子から下りて、元の明るい洋間へ移った。
怪紳士の顔を道夫がそっと盗見《ぬすみみ》すると、たしかに心がいらいらしているらしく見えた。しかし彼はそこを一所けんめいにこらえている様子だ。
「どう
前へ
次へ
全34ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング