た。もちろん、彼が胸に今抱いているある推定についても、口を開かせはしなかった。道夫が、現場から拾った物件について、係官へ報告しなかったことは、彼が義務をおこたったことには違いなかったけれども、道夫をして進んで義務を果させなかったほど悪い印象を与えた側には責任がないとはいえないであろう。
 とにかく道夫の憤激は大きく、
(よし。こうなったら、僕はきっとこの真相をさがしてみせる。係官を成程《なるほど》といわせてみせるぞ)
 と、胸にかたくちかったのであった。
 それから後の道夫は、まったく気の毒なほど淋《さび》しい立場にあった。
 川北先生は、何日たっても、自分の住居《すまい》にも帰らず、学校にも姿を見せなかった。先生の素行についてある疑いを持ったらしいその筋では、二三日先生の住居と学校とに刑事を張込ませたが、先生がいつまでたっても戻ってこないとわかると、その警戒をといた。
 学校には、道夫の同情者が多かった。校長先生を始め諸先生は何回も道夫について同じことをたずねた。が、格別いい手段も考えつかなかったように見える。道夫の級友たちこそ、真剣に道夫に同情した。そして道夫のために共同の捜査を開始することになった。だがこれも、事実はあまり具体的に進行しなかった。というのは、生徒たちにはあまりに手ごわすぎる事件内容であったので、どうすることもできなかった。
 こうして事件は、八方ふさがりの迷宮入りをしたかに思われるに至った。
 それは川北先生の失踪からちょうど七日目の午後のことであるが、道夫は学校から帰ると、例の重い心と事件解決への惻心《そくしん》とを抱いて、ひとりで広い多摩川べりを歩いていた。彼の胸の中には、一つの具体的な懸案があった。それはいつだか川北先生と共に、家の裏でふんづかまえたことのある怪しい浮浪者の老人に出会いたいことだった。
 あの怪老人は今となって考えると、雪子学士の失踪について何事かを知っている有力なる人物だった。気味のわるいそして危険な相手だが、何とか話しこめばこの事件について道夫の知らない手がかりがえられるかもしれないと思う。しかも道夫はその老人に対して新しい問題を持っているのだった。それはあのさわぎの日、松の木の下で拾った色眼鏡は、この老人の持ち物ではないかという疑いだ。万一それが当っていたら、あのどさくさまぎれに研究室にしのび入り、雪子学士の研究ノート八冊をうばい窓から逃げだした人物こそ、この怪老人に違いないという結論になるはずだった。
 そんなことを考えながら、道夫は堤《どて》の上をぶらぶら歩いていた。そのとき彼が、ふと堤の下から一条の煙があがっているのに目をとめ、その煙をつたわって何気なく、その煙の源《みなもと》を見ると、一人の男が焚火《たきび》をして、何か物を煮ているのだった。道夫は、いきなり堤下へ飛び下りた。
「おじいさん。しばらくだったね」
 相手は、ぎょっとして道夫の顔を仰《あお》いだ。道夫はそのとき老人が髯面《ひげづら》に色眼鏡をかけているのを見て取った。だがその色眼鏡は、かねて見覚えのあるものとは違い、枠の細いものであることに気がついた。さてはと道夫の胸はおどった。
 老人はつと立って、例の不恰好《ぶかっこう》な厚着をした身体をぶるんとふるわせると、物もいわずに逃げだした。
「話があるんだ。待ちなさい。おじいさん」
 道夫は後から追いかけた。が老人の足は意外に速く、道夫の方は堤の雑草に足を取られそうで、気が気ではなかった。そのうちに道夫はあっと声をあげた。思いがけなく穴ぼこに落ちこんだのである。その穴は意外に深く、彼は落ち込む途中でいやというほど頭を打った。どこかで老人のあざけり笑うらしい声が聞えた。と、道夫は気が遠くなってしまった。

   怪紳士

 道夫は、ふっと悪夢から目ざめた。
 いじ悪い数頭の犬にとりかこまれて、自分はあっちへ引張られ、こっちへおわれて、はてしない乱闘をつづけているうちに、ふとこの悪夢がさめたのだった。全身におぼえるけだるさ、そしてずきんずきんと頭のしんが痛む。
「おお、気がついたようだよ。道夫君、元気をだしたまえ。そしてまずこれをのむのだ。気持がよくなるよ」
 しっかりした男の声だ。道夫は、まだ夢心地で声のする方へ、ものうい眼を向けた。
(川北先生かしらん)
 と思ったが、道夫の日にうつった声の主《ぬし》の姿は、川北先生ではなかった。先生よりはだいぶん年上の人で、こい緑色の背広を着た面長《おもなが》の背の高い紳士だった。その紳士は、左手を道夫の背中に入れて長椅子から抱きおこし、そして右手にコップをもって道夫の口へ近づけた。
 道夫はひじょうにのどがかわいていたので、いわれるままにそのコップから、中の液体をのんだ。甘ずっぱい、そしてさわやかな、刺戟《しげき》のあるすば
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