だが、そのとき彼はふたたび全身を硬直させなければならなかった。
「あっ、あの顔!」
 雪子姉さんの顔が、どういうわけか、急に馬の面のように長くなった、そうすると、もう雪子姉さんの顔だといっていられなくなった。それは妖怪変化《ようかいへんげ》の類である。
 が、おどろきはそれでとまらなかった。その怪しい顔はにわかに表情をかえた。眼が、筆箱のように上下にのびた。口を開いた。それがまるで短冊《たんざく》のようだ。顔がずんずんのびて、やがてスキーほどに上下へ引きのばされたかと思うと、突然ふっと、かき消すようにその長い顔は消えた。後に残るは、暗黒だけだった。
 道夫は、しきりに手の甲で、自分の眼をこすっては、研究室内を見直した。だが、もう宙に浮ぶ女の首は見られなかった。五分たち十分たちしたが、怪しい首は遂《つい》に再び現われなかった。
「ああ、今見たのは夢だったかしら……」
 道夫は、われに返って、そう呟《つぶや》いた。
 いや、夢ではない。自分は、足場のわるい庭石の上で、身体を動かさないようにする為、けんめいに努力していたことも現実であるし、近くの空を夜間飛行の一機が飛びすぎる音を耳にしたのもまた現実だった。
 だが、今のが現実だとしたら、いったいあれを何とといたらいいだろうか。この世ながらの幽霊の首を見たといったらいいであろうか。それとも妖怪変化が研究室の中に現われたといった方がいいか。とにかくどっちにしたところで、自分の話を本当にとってくれる人は先ずいないだろう――と、道夫はもう今から当惑した。
 三十分待ったが、ついに何の怪しいことも起らないので、道夫は木見家の庭をぬけだし、くるっと廻《まわ》り道をして、やがて自分の家へもどった。そして戸にかけ金をかけて寝床へ入った。
 もちろん目が冴《さ》えて、睡《ねむ》れなかった。解き難い謎が、巴《ともえ》まんじになって道夫の頭の中を回転する。
(あの怪しい女の首と、雪子姉さんの行方不明との間には、いったいどんな関係があるのだろう?)
 何か関係があるような気がしてならぬ。しかしそれはどんな関係か、道夫には見当もつかない。
(あの怪しい女の首は、はたして雪子姉さんの顔だったろうか)
 そうであるようにも思うが、はっきりそうだとはいい切れない。雪子姉さんの研究室で見たのだから雪子姉さんに見えたのかもしれないし、また雪子姉さんのことばかり考えていたので、そう思ったのかもしれない。
(どうして、あの首が俄《にわ》かに上下に馬の顔のように伸びたんでしょう)
 わからない、全くわからない。
 考えつかれて、道夫はとろとろと少しねむった。と、やがて悪夢におそわれた。地獄の中で大捕物があって、結局自分がおそろしい鬼や化け物に追いまわされている夢だった。うなされているところを、誰かに起された。
 起したのは、道夫の母だった。もう朝になったと見え、ガラス戸に陽《ひ》がさしていた。
 道夫は、昨夜のことを母に話さなかった。それは、そんなことを話して母が気味わるがるにちがいないと思ったからだ。
 朝飯がすんで、道夫は学校へいくために家をでたが、すぐ駅の方へはいかず、お隣へよった。昨夜の怪事を、木見家の人々が知っているかどうか、それを知りたかったので。雪子の母親は、いつに変らぬ調子で現われて、道夫がいつもなぐさめにきてくれることを感謝した。
(ふうん、すると小母《おば》さんは昨夜の怪しい首のことを、まだ知らないのだな)
 と道夫はそう思った。知らなければ、今いわないでもよいであろう。
 が、一つ聞きたいことがあった。
「小母さん。昨夜、研究室の入口の扉は、しめてありましたか」
 雪子の母親は、なぜそんなことを聞くのかといぶかりながら、答えてくれた。
「あの入口の扉は、いつもちゃんとしめてありますの。なんだか気味がわるくてね」
「はあ、そうですか。そして、鍵はどうでしょう。昨夜研究室の扉の鍵はかけてありましたか。どうなんですか」
「鍵? ええ鍵はちゃんとかけてありましたよ。まあ、なぜそんなことをお聞きなさるの」
「ええ、それは……それはちょっと考えてみたいことがあったからです」
 道夫は、そこで話を切って、外へでた。
 不思議だ、不思議だ。研究室の扉に錠が下りていたのなら、外からあの部屋へは誰も入れないはずだ。すると昨夜見たあの女は、いったいどこからあの部屋へ入りこんだのであろうか。いよいよわけがわからなくなった。

   川北《かわきた》先生

「おい三田君。君は何か心配事でもあるの。近頃みょうにふさぎこんでいるじゃないか」
 学校でのお昼休みの時間、運動場のすみの木柵《きさく》によりかかって、ぼんやり考えこんでいる、道夫の肩を、そういってたたいた者があった。
「あ、川北先生……」、
 主任の川北先生が、眼鏡の
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