帽子《なかおれぼうし》をかぶって、そのつばを下げ、額から耳のあたりから頸《くび》のうしろまですっぽりかぶっていた。服は、長いだぶだぶのレーンコートを着ていたが、質はよいと見え、破れている箇所は一つもなかった。そしてコートの奥にはカーキ色の服ともシャツともつかぬものを着ているらしく、はでな赤いネクタイをむすんでいた。靴も、大きなゴム長をはいていて、雨であろうと天気であろうとぬがなかった。彼はポケットから、大きな懐中時計をだしてみることもあり、また時には店へ入りこんで、大きな皮手袋をはめた手の上に十円|紙幣《さつ》などを乗せて塩を買ったり酢を買ったりする。そういうところは、けっして浮浪者ではないように見えた。
「そういえば、あの年寄りの浮浪者は、いつだか、木見さんのお邸《やしき》のまわりをうろついていたわね」
塀のかげで、三人のお手伝いがこの話をしている。
「そうよ。裏手へまわって、あの空地《あきち》のあたりから、雪子さんの研究室の方を、のびあがって見ていたわ」
「怪しい浮浪者だわね。そうそうあの人はよくあの裏手の空地にある大きな銀杏《いちょう》の樹の上にのぼって昼寝していることがあったわよ。あたし、それを見て、きゃっといって飛んで帰ったことがあるわ」
「いよいよ怪しいわね。あの浮浪者、どこへいってしまったんでしょうか。雪子さんの事件以来、二度と姿を見かけないわね」
「どこへいってしまったんでしょう。まさか雪子さんをつれて逃げたんじゃないでしょうね」
「まさか、あんな年寄りに」
「でも、分らないわよ。変に気味のわるい人なんですものね」
「ひょっとしたら、あの浮浪者、そのへんにかくれているんじゃない」
「いやあ、そ、そんなことをいっておどかしては……」
こんなふうな会話が、附近一帯でさかんにとりかわされた。誰の考えも、あの気味のわるい高等浮浪者(と町の或る人はうまい名をつけた)が少くとも雪子がきえた頃以来、姿を見せないことに不審の根拠を置いていた。
道夫少年も、この噂《うわさ》は耳にしていた。ひょっとしたら、自分に疑いがかかることを恐れるか何かしてそしてその浮浪者が、昼間だけは姿をかくしているのではないか、そして夜中には近所をうろついているのではないかと思った。それで或る夜、道夫は時計が十二時をうつと、そっと雨戸をあけて外へでた。家のまわりを見まわるためだった。
しかし道夫は、家のまわりにかわったことがないことをたしかめた。もちろんあの老浮浪者の姿もなかった。明るい探険電灯で、高い銀杏の梢《こずえ》をてらしてもみたが、老浮浪者の姿はなく、あるのは雁《かり》のような形をした葉ばかりだった。
「大したことはなかった。じゃあ、もう家へもどろう」
と、彼は探険電灯の灯《あかり》を消し、一ぺん表通りへでるため木見家の裏手を通りかかった。
そのとき道夫は、何気なく、木立越しに、雪子姉さんの研究室の方を見た。
と、その研究室の中に、ぼんやりしたうすあかい灯がついているように思った。
「誰だろう、今頃、あの部屋の中を調べているのは……」
刑事たちではなかろう。では誰か家の人だろうか。雪子姉さんのお父さんかお母さんに違いない。
そうは思ったが、道夫は何だかその灯のことが気になって仕方がなかった。それで彼は思い切って、くぐり戸を開くと、お隣の庭へすべりこんだ。そして研究室の方へ近づいていった。
研究室の窓は高かったので、中を全部見ることはできなかったが、庭石の上に乗ってやっとガラス窓から部屋の一部を見ることができた。その刹那《せつな》、
「あっ、あれは……」
と、道夫はその場に立ちすくんだ。彼は何を見たか。暗い部屋の中に、宙にうかんでいる女の首を見たのであった。
のびる顔
道夫は、おどろきのあまり、その場に化石のようになってしまった。
しかし道夫の眼だけは生きていた。彼の眼は、おそろしいものの影をおっていた。闇の研究室の中に、そのおそろしい女の首だけが見えている。宙にうかんでいる女の首。ぼんやりと赤い光に照らされているようなその首だけが見えるのだ。
(なぜ、あんなところに、女の首が宙にうかんでいるのだろう?)
道夫は、そのわけを早く知りたかった。が、そのわけはさっぱりわからない。
(おや、あの首は、雪子姉さんに似ている……)
道夫は、ふとそのことに気がついた。
(雪子姉さんが、家にもどってきたのだろうか)
それなら、こんな喜びはない。――雪子姉さんが戻ってきて研究室へ入ったのだ。室内の灯が、雪子姉さんの首だけを照らしているのだ。だから、姉さんの首だけが見えるのだ。
「ああ、何という僕はあわて者だったろう」
道夫は、おかしいやらはずかしいやら、そしてまたうれしいやらで庭石の上から芝生《しばふ》へ下りようとした。
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