に床をする音ばかりであった。
 道夫は、机の向うの空席の椅子に、かの怪紳士が腰をかけるのだろうと予期していた。ところが彼の靴音はその椅子の方へはいかず、道夫の背後を忍び足で通りすぎた。やがて紫のカーテンの金具が小さく鳴った。足音はそれっきり聞えなくなった。怪紳士はこの暗室からでていってしまったのだった。ぞっとする寒気が再び道夫の背筋をおそった。
(僕ひとりをこの部屋において、どうしようというのだろう)
 不安が入道雲のように膨張していった。動悸《どうき》がはげしくうちだした。のどがしめつけられ、息がつまりそうである。道夫は一声わめいた上でこの部屋から逃げだしたい衝動にかられたが、なぜか足も腰もすくんでしまって自由がきかなかった。彼は催眠術をかけられた人のように、そのままじっとしているより外なかった。
 五分、十分。……何事も起らない。部屋は完全なる暗黒である。五感に感ずるものは、ほのかなる香料の匂《にお》いと、そして大きくひびく道夫自身の心臓の音だけだった。
 十五分……そして多分二十分も経《へ》た。道夫が椅子の上で身体をちょっと動かすと、ぎいっと椅子が鳴った。それはびっくりするほどの高い音をたてた。
 三十分……もうたえられない。我慢ができない!
 と、そのときだった。隣室の鳩時計がぽうっぽうっと、九時をうった。まだ九時かといぶかる折しも続いてどこかの部屋で、じりじりと電話の呼びだしのベルが鳴りだした。道夫はそれを聞くとすくわれたように思った。
 受話器を取上げたらしく、返事をする声が聞えた。
 その声はまぎれもなく例の怪紳士の声である。
「えっ、本当? もっとはっきりいって……うむ、それは重大だ。場所はどこ?……えっ、そうか。そうか。……よろしい、すぐでかけます……」
 何事か重大なことがらの知らせが怪紳士のところへ届いた様子である。何事であろうか?

   暗室の怪

 ちょっと間を置いて、道夫の背後のカーテンが開かれ、部屋がすこし明るくなった。と道夫は怪紳士から、こっちの部屋へくるようにと呼ばれた。
 放免《ほうめん》だ。暗室の怪業から放免されたのだ。道夫は大よろこびで椅子から下りて、元の明るい洋間へ移った。
 怪紳士の顔を道夫がそっと盗見《ぬすみみ》すると、たしかに心がいらいらしているらしく見えた。しかし彼はそこを一所けんめいにこらえている様子だ。
「どう
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