亡診断書に認《したた》めてくれた。
「ああ助かった――」
と妾はそこで始めて胸を撫で下したのであった。
それが済むと、金田医師は手馴れた調子で屍体をアルコールで拭ったり脱脂綿を詰めたりして一と通りの処置をした。速水女史もクルクル立ち廻ってその辺を片づけてくれた。そして枕許にあった冷水の壜《びん》などは、わざわざ持っていって下水に流し、中を綺麗に洗ってもって来るなどと、実にまめに立ち働いた。妾はそれ等をただ呆然と見つめているばかりだった。
丁度そこへ、静枝が外から帰ってきた。彼女は玄関を上ると、今まで速水女史の家で、女史が再び帰ってくるかと待ち合わせていたものの、待ち倦《あぐ》んで引返してきたのだと声高に述べたてていたが、真一の突然の死をお手伝いさんから聞くと、驚いて離座敷に駈けつけてきた。その顔は真青だった。
6
妾の気がすこし落着いたのは、それから十日ほど経ったのちのことだった。
真一の屍体は納棺して密かに火葬場へ送って焼いた。その遺骨はお寺へ預けてしまった。ささやかなる初七日の法要もすんで、やっと妾は以前の気持を取りかえしたのだった。
あれほど気にかかっていた「三人の双生児」の謎も、解けない儘《まま》に、そう気にならなかった。それよりも突然に死んだ真一の死因を早く知りたかった。
真一は病気のために頓死したのであろうか。いやいやあのように元気だった彼が頓死するようなことはない。それよりも問題は彼の枕頭に転がっていた空《から》のコップのことだ。コップで当り前に嚥《の》んだものなら、盆の上に戻されていなければならないと思うのに、コップが空になって畳の上に転がっていたのは可怪しい。コップから水を嚥んで、下に置こうというときに異変が起ってコップを手から墜《お》としたら、ああもなるのではないかと想像される。ではその異変というのは何であろう? それは嚥み下した水の中に、なにか毒物が入っていたというような訳なのではあるまいか。
仮りにそれが本当であったとしたらば、その水瓶の中の毒物は一体誰が投げこんだものであろうか。その恐ろしい犯人は誰なのであろうか。誰が真一を殺さねばならない特殊の事情を持っていたのだろうか。
まさか妾の全然知らない人物が入りこんで殺していったとは考えられない。どうしても犯人はわが家に出入する人物の中にあるのだと思う。その点では、彼が曲馬団時代に怨恨を残して来た者がわが家に忍びよって殺したとも思われない。ただ、曲馬団というので思い出したが、あの静枝はその例外だと思う。
静枝! 静枝!
そうだ静枝が殺したのではなかろうか。静枝のことは、速水女史の調べで妾のはらから[#「はらから」に傍点]ということが判明したことになっているが、真一から聞《き》いたところによると、元同じ銀平の曲馬団にいたお八重という蛇使いだという話であった。彼女の秘密が旧い馴染の真一の口から洩れそうだと知ると、これは殺しかねないことだろうと思われた。だがそれをハッキリ云うには、それほど確かな証拠が揃っていない。それに真逆《まさか》あのような優しい静枝がとは思うが、これは一つ確かめてみる必要があると思った。
「真一を殺したのは、誰だ?」と。
もう妾は静枝を疑う気はしなかった。誰か外《ほか》に真一殺しの真犯人がいなければならぬ。そういえば、あの日気がついたことだが、確かに閉めさせてあったと思った奥庭つづきの縁側の雨戸に締りがかかっていなかった。その奥庭というのは玄関脇の木戸さえ開けばそのまま入って来られるようになっていたのであるから、これはひょっとすると、玄関の方から誰かが密かに縁側へ廻って来て、あの室内の水瓶に毒を混入した。それを知らないで真一が水瓶からコップに水を注いで嚥み、あのように死んでしまったのではないかと考えた。そうでないと、あまりにも不思議な毒物の出現であったから。
そこに気がついた途端に妾はいままですっかり忘れていたあの夜の重要人物のことを思い出した。それは妾が真一と共に離座敷に入ろうとしたときに、キヨが玄関に来訪を告げに来た未知の紳士のことだった。キヨの言葉を借りると、その紳士と妾とは、男と女との違いこそあれまるで瓜二つのように似ていたので愕いたということである。その紳士に逢おうとて、妾が玄関に出て行ったときには、どうしたものか姿が見えなくなっていた。それから妾はキヨにいろいろ命じたりして、約五分か十分経って、妾が離座敷に行ったときには、もう真一が斃《たお》れていたのであった。それから以来、あの妾によく似ているという紳士には逢わないが、彼こそそのような奇術めいたことが出来る立場にあったのではなかろうか。一体あれは誰だったろう。
そこで妾は勝手の方からキヨを呼びよせて、怪紳士のことを尋ねてみたのであった。
「ああ、あの紳士の方のことでございますか」
とキヨは俄かに狼狽《ろうばい》の色を示しながら、
「まあ奥さま、あたくしどういたしましょう。真一さまのことで大騒ぎとなりましたので、忘れていましたが、実はあの夜あれからもう一度、あの方にお逢いしたのでございます」
そこで訊《たず》ねてみると、妾が寝室へ引取ってからものの五分と経たないうちに、彼の紳士はまた玄関に入って来たが今夜は逢わないという奥さまのお云付《いいつ》けを伝えるとそのまま帰った。しかし自分の名前を名乗りもせず、九月の始めになると、また当地を通るから、そのときに気が向いたら寄ろうなどと云ったそうだ。なんという不可解な紳士だろう。話をきくと、妾に好意を持っているようでいて、よく考えると行動の上に於て、この位怪しい人物はないと思われる。黙って殺人をして引取っていったとすると、これは実に大胆不敵な兇漢であるといわなければならない。妾を吃驚《びっくり》させるなんて――殺人者として妾の目の前に立って吃驚させるぞという悪党らしい遊戯かも知れない。
ただ腑に落ちないのは、妾にこの上なくよく似ているということである。静枝がよく似ていると自分でも思っているがキヨはそれよりももっとよく似ているという。未知の同胞《はらから》を探していると公表したけれど、こう後から後へと妾によく似た人物が出て来たのでは、気味がわるくて仕方がない。
妾は、その怪紳士が寄るかもしれないと云い残して置いた九月を迎えるのが、急に恐ろしく感ぜられてきた。
7
八月も末になって、暑さが大分|和《やわ》らいで来た。
或る日妾は、なんとなく家にいるのが堪えられなくなってブラリと邸を出た。久し振りの散歩につい興に乗って、思わずも歩を搬びすぎ、いつの間にか隣村の鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》の傍に出た。そしてそのとき杜蔭に思いがけなくも、曲馬団の小屋が掛っているのを見て、たいへん奇異の感にうたれたが、近づいてみると、古ぼけた蝦茶色《えびちゃいろ》の緞帳《どんちょう》に金文字で「銀平曲馬団」と銘がうってあったのには、夢かとばかりに驚いた。銀平曲馬団といえば、これは亡き真一が一座していたという曲馬団と同じ名であった。
そこで妾は、小屋の前へ廻って中を覗いてみたが、生憎《あいにく》一座は休演していることが分った。横手の草地の上には顔色のよくない若衆がいて、前日までの長雨に大湿りの来た筵《むしろ》を何十枚となく乾し並べていたので、妾はそれに声をかけた。そしてこれが紛《まぎ》れもなく銀平の率いる曲馬団に相違ないことを知ったが、丁度幸いにもいま座長の銀平老人は、古幟《ふるのぼり》で綴《つづ》った継《つ》ぎはぎだらけの垂れ幕の向うに茶を飲んでいるということであったから、妾は思いきってズカズカと中に這入《はい》っていった。なるほどそこには浮世の苦労を嘗《な》めつくしたというような顔をした小柄の半白の老人が、ただ独りで渋茶を啜《すす》っていた。
「ナニ、昔咄《むかしばなし》を聞きたいというのですかい」
と銀平老人は一向|駭《おどろ》きもせずに、
「汚穢《きたなら》しいが、まアとにかくこっちへお上りなすって……」
といって筵の上へ招じた。
妾の不意の訪問も、この佗《わび》しい休演中の座長の老人を反《かえ》って悦ばせたらしい。思いがけなく熱い茶を御馳走になって、この老人の行い澄ました心境を覗いたような気がして物を言いだすのに気持がたいへん楽であった。
「もとこの一座にいたという海盤車娘《ひとでむすめ》を御存知?」
「ああ、海盤車娘かネ。海盤車娘もたくさんいるが、どの娘かネ」
「娘と名はついているが、本当は安宅真一という男なんですが……あの肩のところに傷跡の残っている……」
「ああ、真公のことかネ。あいつはついこの間まで居たが、とうとうずらかりやがった。あっしとしては、これんばかりの小さいときから手がけた惜しい玉だったが……貴女さんはなぜ真公のことを訊きなさるのかネ」
そこで妾は、真一が頼ってきて遂に死んだ話をした後、始め真一が幼いときの身の上ばなしをしたが、何かほかに銀平老人が知っていることはないかと訊ねた。
「ああ、真公の生立《おいた》ちが知りたいというのだネ。あれは今からザット十五六年も前、四国の徳島で買った子だったがネ。当時はなんでも八つだといったネ。病身らしい子で、とても育つまいかとは思ったが、肩のところにある瘤《こぶ》が気に入って買ってしまったのさ」
「誰から買ったんですの」
「さあ、そいつは誰だったか覚えていないが、とにかく何処の国にもある人売稼業の男から買った」
「その親は誰なんでしょう」
「さあ、その親許《おやもと》だが」
と老人は暫く考えていたが、「さあ、後に開演中の客席から大声をあげて飛び出して来た若い女がいたがネ、それがなんでも生みの母親とか云っていたが家出している女らしかった。父親というのは徳島の安宅村に住んでいるとか云ったが、その苗字《みょうじ》は……」
と老人は首を曲げて思い出そうと努めているらしかった。妾は銀平老人の話を聞いているうちに真一の語った身の上が想像していたよりも正確であり、妾にとって実に興味のある話であることが分った。
「苗字は安宅というのじゃありませんの」
「イヤ安宅は後になってあっしがつけてやった名前だよ。真公の生れた村の名だからいいと思ったのでネ。さて、本当の苗字はちょっと忘れちまったネ。なんしろ古いことでもありあまり覚える心算もなかったのでね。ひょっとすると、梱《こうり》の底に何か書附けとなって残っているかもしれない」
妾は老人に十分のお礼をするから、その書附を探してくれるように頼んだ。妾はそれから、蛇使いのお八重という女を知っているかと尋ねた。
「ああお八重かネ。あいつも先頃までいたが、可哀想なことをしたよ」
「可哀想なことというと……」
「なに、あの女は真公に惚《ほ》れてやがったが、真公が居なくなると気が変になってしまって、鳴門《なると》の渦の中へ飛びこんでしまったよ」
「まあ、誰か飛びこむところを見たんですの」
「見たというわけじゃないが、岩頭に草履《ぞうり》やいつも生命よりも大事にしていた頭飾りのものなどを並べてあったのを見つけたんだ。それから小屋の中からは、皆に当てた遺書が出て来たが、世を果敢《はかな》んで死ぬると、美しい文字で連《つら》ねてあった。あの子は仲間の噂じゃ、女学校に上っていたことがあるらしいネ」
「死骸は上ってきたんでしょうか」
「さあ、どうかネ。――なにしろあっし達は旅鴉《たびがらす》のことであり、そうそう同じ土地にいつまでゴロゴロして、出奔《しゅっぽん》した奴のことを考えている遑《いとま》がないのでネ。それと鳴門の渦に飛びこめば、まあ死骸の出ることなんざ無いと思った方がいいくらいだよ」
この話では、蛇つかいのお八重はインテリ女らしい。すると、やはりあの静枝はこの蛇つかいのお八重なのであろうか。そこで妾は彼女の素性《すじょう》を訊ねたが、あの娘は二年ほど前に突然一座に転げこんで来たので、前身は知らないと老人は答えた。またそのお八重が申年《さるどし》かどうかも知らなかった。
妾は、果して
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