、身を屈めて例の黒い三角形を取上げると、クルリと後へ向いて再び門の中に消えてしまったのです。それから五分たっても十分たっても其の姿は現われませんでした。
 私は思いの外にうまく行った事を喜びました。医科の助教授連が学用モルモットを殺すときの気もちに似た残虐的《ざんぎゃくてき》快感に燃え立ったのでした。細田氏が十分間|経《た》っても姿を現わさないのは恐らく氏が自分の室にかえりあの呪いの三角形を見て前日のことを思い浮べ外へ出る気にならないのだろうと思いました。あの分では細田氏は前日の三角定規も確かに認めたのに相違あるまいという事が考えられもしました。あの尖《ほそ》い神経の持ち主が、ここまで来ればもう一寸やそっとでは、此の三角形の脅迫観念から退れることはできまいという事も思い合わせることが出来ました。
 科学に縁遠《えんどお》い人間に、三角形に対する恐怖を抱かせることの出来た私は、もうそれで所信の点を充分確かめ得たわけですから、此所で手を引くのが当り前でした。しかしいつの間にやら私の興味はこういう概念的《がいねんてき》なことよりも、細田氏という一個の人間を操《あやつ》ることの現実的興味に変じてしまっていたものと見えて、私は更にそれからそれへと三角形の恐怖の段取りを進めて行ったのです。それが為めに到頭後に御話するような取返《とりかえ》しのつかない事件をひきおこしてしまったのでした。
 兎も角、それ以来というものは細田氏の病院通いがパタリと中止されました。私は邸前の路地や、空地の片隅に佇んだまま無駄な数日を送りました。表からは勿論のこと裏の木戸からも、細田氏の姿は一寸も現われることがありませんでした。私は今用意して来た恐怖刺戟の種が数日間も氏に供給せられないために、ここまで搬《はこ》んだ計画が途中で妨《さまた》げられてしまうんではないかと思って大いに気をくさらしましたが、よく考えて見ますと、あれからのちは私自身が手を下さなくとも、細田氏は自分でいつでも到る所、身のまわりに三角形の空間を見出して独りで三角形の恐怖を加速度的に増大させていたに違いはないのです。
 たとえばですね、時計の指針は一日に数十回に渡って鋭角を形作ります。窓から陽が斜に入れば三角形の影が沢山出来るわけです。用箋を繰れば、偶然に枠《わく》が傾斜《けいしゃ》をして紙と縁と三角形をなしていることもないとは言い切れ
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