はなかったのに、とうとう殺してしまった」
私は尚も叫んでいた。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
女の笑う声がする。おお、あれはたしかに死んだ女房の笑い声だ!
声のする方を見ると、いつの間にか女房が私と肩を並べて歩いている。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と女房は笑いつづける。
私は急に恥かしくなって来た。女房は生きていたのだ。それだのに、「私は女房を殺した」と怒鳴《どな》っていたのだ。そして人もあろうに、女房の奴にすっかり聴かれてしまった。
「まあ、よかった」と私は恥《はじ》も外聞《がいぶん》も忘れて女房に話しかけた。「私は、お前を殺したとばかり思っていたよ。お前は生きていて呉れて、こんなに嬉しいことは無い」
「何を云ってんのよオ」と女房はニヤリと笑った。「あんたはあたしを殺したに違いないわ」
「威《おどか》しっこなしサ。現在お前は私の傍にこうやって肩を並べて歩いているじゃないか」
そうは云ったものの、あの深《ふ》か情《なさけ》の女房が又しても傍《そば》にへばりついているのかと思うと、私は五体の力が一時に抜けてしまうように感じたのだった。
「あんたは随分お莫迦《ばか》さんネ」女房はおかしそうに笑った。
「何故さ」私はムッとした。
「そうよ、お莫迦さんに違いないわ。一体あんたは何故あたしの傍に居るんだかよく考えて御覧なさい。あたしはあんたに殺されてしまったのよ。死んだ人間なのよ。その死んだ人間とあんたは肩を並べて歩いているんじゃないの。どうして死んだ人間と並んで歩いて行けると思って? そんなことが出来る場合は、たった一つだけよ。それはネ、あんたも死んでしまった場合なんだわ。つまりあんたは生きていると思っているらしいけれど、本当は夙《とっ》くの昔死んでしまっているのよ。女房殺しの罪で死刑になったんじゃありませんか。ホ、ホ、ホ、ホ」
女房の笑い声が終るか終らない裡《うち》に、今まで歩いていたと思った野ッ原の景色が急に薄れて、いつしかあたりには真白の雲が渦を巻いていた。確かにそれは、あの世の風景に違いなかった。
私は恐怖のあまり其《そ》の場に立ち竦《すく》んだ。
――或る夜の夢より――
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「読書趣味」
1933(昭和8)年10月創刊号
入力:tatsu
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