あるといわなければならない。
 そのころ、当の金博士はどうしていたかというのに、彼は常住《じょうじゅう》の地下室から、更に百メートルも下った別室に避難し、蟄居《ちっきょ》してしまった。それは、二十六日の爆弾の破片から身をのがれるためではなくて、博士が十五年前に装填《そうてん》した長期性時限爆弾に関して、問い合わせに殺到した官界財界その他ありとあらゆる職業部面の、概算《がいさん》三千人の群衆からのがれるためであった。なにしろそういう人々は事《こと》生命財産に関係することだとあって、衣服が破れ、鼻血を出し、靴の脱げ落ちることなど一向《いっこう》意に介《かい》せず、文字どおり博士めがけて殺到したこととて博士がそのままこの群衆を引受けようものなら、博士はぺちゃんこになってしまったかもしれないのである。
「やあ、皆、こっちへ戻れ、不発弾が、なに恐ろしい、戻れというのに……」
 と、エディ・ホテルの前で、不発論を守って、逃げ行く不甲斐《ふがい》なき民衆を呼び戻しているのは例の咄々《とつとつ》先生であった。
「おい、皆よく聞け。五時間や十時間先に爆発する時限爆弾ならいざ知らぬこと、一体、十五年間も先に爆発するなんてそんな、べら棒なものがあってたまるものか。十五年すれば缶詰だってくさる頃だよ。ましてや金博士の手製になるあやしき爆弾が、十五年間もじっと正しき時を刻《きざ》んで、正確なる爆発を……」
 残念ながら、咄々先生の言葉は、これ以上録音することが不可能の事態とは相成《あいな》った。なぜなれば、咄々先生の舌が、一抹《いちまつ》の煙と化してしまったからである。もちろん舌ばかりではない、咄々先生の躯《からだ》ごと煙となって、空中に飛散してしまったのであった。咄々先生が背にしていた礎石は、正直に大爆発を遂《と》げたのであった。時刻は正に二十六日の午前九時三十分――いや、こんな時刻のことなんか、読者には一向興味のないことであろう。それよりは、その礎石の爆発に端《たん》を発して、かの二十五階の摩天閣《まてんかく》たるエディ・ホテルが安定を失って、ぐらぐらと傾《かたむ》き始めたかと思うと、地軸《ちじく》が裂けるような一大音響をたててとうとう横たおしにたおれてしまい、地上は忽《たちま》ち阿鼻叫喚《あびきょうかん》の巷《ちまた》と化し、土煙《つちけむり》と火焔《かえん》とが、やがて租界をおし包んでしまったこと、そして礎石の爆発よりホテルの完全|倒壊《とうかい》まで約一分十七秒を費《ついや》したという数字の方が、より一層読者の科学する心を刺戟《しげき》することであろう。
 それに引続いて、この租界では、大小三回の爆発があった。ホテルの礎石の爆発とを合わせて、四回の爆発があったわけだ。いずれも、それ相当の手応《てごたえ》があったのであるが、ここではその詳細を一々述べている遑《いとま》がない。ただ十二マイナス四イクォール八という算術に於て明かな如く、予想されたるあと八つの爆発は、ついにこの租界内では見聞することが出来なかった。
 そのわけは、例ののこりの爆弾装填物が、装填後十五年もたった今日、この租界の外に搬出《はんしゅつ》されてしまったのであるか、それとも時限器の狂いでもって、二十六日以後に爆発するのであるか、そのへんははっきりしない。いずれにしても、租界の住民たちは、二十六日が去って一安心したものの、まだ枕を高くして睡ることは出来なかった。そしてそれからというものは、市民たちは暗いうちに起きて、慄《ふる》えながら戸口に佇《たたず》み、新聞が戸袋《とぶくろ》の間から投げ込まれると、何よりも先ず、その日の紙面に、金博士の広告文がのっているかを確め、しかるのちまた寝台にのぼって、改めてすやすやと睡りを貪《むさぼ》るという有様《ありさま》だった。
 こうして住民は、二十九日爆弾の影に怯《おび》え、三十日爆弾を噂し、三十一日爆弾の有無《うむ》を論じ、一日《ついたち》爆弾に賭けるというわけで、ついに金博士の時限爆弾は、住民たちの生活の中に溶けこんでしまった、という罪造《つみつく》りな話であった。
 その間にも、金博士に、なんとかして面会のチャンスを掴《つか》もうとする決死的訪問客は、入れかわり立ちかわり博士の地下室に殺到《さっとう》したのであるが、博士は常に油断をせず、ついぞ彼等の前に姿を現したことがなかった。
 しかしながら、博士も木石《ぼくせき》ではない。一週間も二週間もこんなところに籠城《ろうじょう》しているのに飽《あ》きてきた。


     4


 或る日、博士は瓶詰のビスケットと、瓶詰のアスパラガスとで朝飯をとりながら、ふと博士の大好きな燻製《くんせい》もののことを思い出した。
「やあ、鮭《さけ》の燻製でもいいから、ありつきたいものじゃな。うちの冷蔵庫の隅に尻尾ぐらいは残っていそうなものだ」
 博士は生唾《なまつば》をごくりと呑みこみながら、秘書を呼んで冷蔵庫を探させた。
「先生、尻尾どころか、鱗《うろこ》さえ残っていません。絶望です」
「ふーん、そうかね。ふふーん」
 博士の失望落胆《しつぼうらくたん》は大きかった。博士は、大きな頭を、しばらくぐらぐら動かして考えていたが、
「おい、秘書よ。劉洋行《りゅうようこう》へ電話をかけてみい。あそこなら、すこしは在庫品《ざいこひん》があるかもしれん」
「先生、外部への電話は、一切かけてはならないという先生の御命令でしたが、今日はかけてもいいのですか」
 かねがね電話使用を禁じたのは、例の時限爆弾のことで、博士に面会しようという輩《やから》に乗《じょう》ぜられるのを恐れてのことであった。しかしながら、こうして燻製を想い出した今となっては、もはやそんなことをいっていられない。幸いにも、人の噂も七十五日という、そこまでは経っていないが、あれからもう三週間もすぎていることゆえ、多分もう大丈夫だろうという予想もあって、博士は遂《つい》に電話を外へかけさせたのである。
 劉洋行の店の者が、電話口に出て来た。
「はいはい、毎度ありがとうござい。こちは劉洋行でございます」
「おお、劉洋行かね。おれは金博士じゃが、なんとかして燻製ものを頒《わ》けてくれ。お金《かね》に糸目はつけんからのう」
「え、燻製ものでございますか。お生憎《あいにく》さまでございます。ちょっとこのところ、鮭も鱈《たら》も何もかも切らしておりまする」
「しかし、冷蔵庫の中とか、後とかを探してみたまえ。棚《たな》のものを全部|下《お》ろしてみたまえ。燻製ものの一尾《いっぴき》や半尾《はんびき》ぐらいはありそうなものじゃ。とにかく金に糸目はつけん。君にもしっかりチップを弾《はず》むよ」
「さあ、弱りましたな。ちょっとお待ち下さい、……ところで金博士。一体、十五年先というような長期性時限爆弾は、何の効果があるのですか」
「おや君は、いやに変な声を出すじゃないか。とにかく時限爆弾などというようなものは、長期のものほど効果が大きいのじゃ。たとえば一塊《いっかい》の煉瓦《れんが》じゃ。新しい煉瓦が路に落ちていれば目につくが、その煉瓦が、建物に使われて居り、既に十五年も経って苔《こけ》むして古ぼけているとすると、誰がそれを時限爆弾たることを発見するだろうか。その油断に乗じて、どかーんと一たび爆発すれば、相当な損害を与えることが出来る。だから、時限爆弾は長期のものほど大いによろしいのである」
「なるほど。で、もう一つ伺《うかが》いたいのはその、長期性時限爆弾の正味《しょうみ》ですが、その実体はどれくらいの大きさのものでしょうか。定《さだ》めし、ずいぶん小さいのでしょうなあ」
「時限爆弾の大きさかね。それは大きいのも小さいのもいろいろ有るがね。今まで造ったうちで極《ご》く小さいものというと、婦人の持っているコンパクトぐらいじゃね。わしが今|覚《おぼ》えている第88888号という時限爆弾は、金色燦然《こんじきさんぜん》たるコンパクトそのものである。パウダーの下に、一切の仕掛けと爆薬とが入れてある」
「それは危険ですね。金色のコンパクトで、第88888号でしたね。さあ、なんとかして、その運の悪い貴婦人に警告してやらねばなるまい」
「なんだって。こら、貴様は、劉洋行かと思っていたら、いつの間にか相手が変っていたんだな。け、怪《け》しからん。とうとうわしから時限爆弾のことを聞き出し居った。ここな、卑劣漢め!」
「いや、お待ち遠さまでございました。只今倉庫中を調べましたところ……」
「なにをなにを、その手は喰わないぞ。今ごろになって、声を元に戻しても駄目だ。け、怪しからん」
「え、博士。もう燻製は御入用《ごにゅうよう》ではないのですか」
「ありゃありゃ。はて、これはたしかに劉洋行の店員の声じゃ。待ってくれ。本物の店員君なら、電話を切らないでくれ。して、燻製があったか」
「有りました。とって置きの、すばらしい燻製です。外《ほか》ならぬ博士の御用命ですから、主人が特に倉庫を開きましてございます。それがあなた、珍味中の珍味、蟒《うわばみ》の燻製なんでございます」
「ええっ、蟒の燻製?」
「はい、たしか蟒です。胴のまわりが、一等太いところで二|米《メートル》半、全長は十一|米《メートル》……」
「それは駄目だ。いくらわしでも、そんな長い奴を、とても一呑《ひとの》みには出来んぞ」
「いや、一呑みになさるには及びません。厚さが十|糎《センチ》ぐらいの輪切《わぎり》になって居りますので、お皿にのせて、ナイフとフォークで召しあがれます」
「おお、そうか。そいつは素敵だ。じゃあ、うまそうなところを一|片《きれ》、大至急届けてくれ」
 博士は、電話をかけながら、ごくりと生唾《なまつば》をのみこんだ。


     5


 それから一時間ばかりして、待望の蟒《うわばみ》の燻製《くんせい》が、金博士の地下邸《ちかてい》へ届けられた。
 秘書が、そのことを博士に知らせにやってきた。
「うふふん。お前の知らせを待つまでもなく燻製をもってきたことは、ちゃんと知っておるわい。それよりも、早く卓子《テーブル》のうえに皿やフォークを出して、すぐ喰べられるようにしてくれ。ぐずぐずしていると、おれは気が変になりそうじゃからのう」
 博士が燻製にあこがれること、実に、旱天《かんてん》が慈雨《じう》を待つの想いであった。秘書は、びっくりして、引込《ひっこ》んだ。
「とうとうありついたぞ、燻製に! 燻製の蟒――蟒は、ちょっと膚《はだ》が合わないような気もするが、しかし喰ってみれば、案外うまいものかもしれない。そうだ。時局柄《じきょくがら》、贅沢《ぜいたく》はいわないことじゃ。それにしても、あの秘書め、何をぐずぐずしているのじゃろう」
 カーテンの向うから、秘書の咳《せ》き払《ばら》いが聞えた。
「おほん、食事の御用意が整《ととの》いましてございます」
「おお、待ちかねた。今、そこへ行くぞ」
 食事の用意が出来たと聞いた途端《とたん》に、博士はまるで条件反射の実験台の犬のように、どうと口中に湧《わ》き出《い》でた唾液《だえき》を持てあましながら、半《なか》ば夢中になって隣室へ駆け込んだ。
「いやあ、これは偉大だなあ!」
 卓子《テーブル》に並べられた大皿を見て、博士はまず驚嘆《きょうたん》の声を放った。そうでもあろう。胴のまわり一|米《メートル》三、厚さ十|糎《センチ》というでかい蟒の胴を輪切りにした燻製が、常例《じょうれい》ビフテキに使っていた特大皿から、はみ出しそうになっているのである。
 博士は、椅子にかけるのも待ち遠しく、ナイフとフォークとを取り上げて皿の中をのぞきこみながら、
「うふふん。どうもこの燻製の肉の色がすこし気に入らぬわい。こんなに黝《くす》んでいるやつは、肉が硬くていかん。こいつはきっと、煙っぽくて、喰っている間に、咽喉加答児《いんこうカタル》を起こすかもしれんぞ」
 こと燻製ものについては、博士は仲々くわしいのであった。
 ちゃりんちゃりんナイフを磨《と》ぐ音がした。博士はナイフをひらめかして
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