体臭が鼻をつく。
「キミちゃん居るかい」彼は暗中《あんちゅう》に声をかけた。
「ああ、ムーさんだわね、向うから二番目に、キミちゃん、まだ寝ているわ」と女給頭のお富が彼の膝頭《ひざがしら》の辺から頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「そうか。僕は二時頃まで、ちょいと寝たいんだ、あとからウンと奢《おご》ってやるから大目《おおめ》に見るんだぜ。それからお富|姐御《あねご》すまないけれど、その時間になったら、コックの留公に用が出来るんだから、どこにも行かずに待たせて置いとくれ。もう二時まで、なんにも口をきかないからな、話しかけても駄目だぜ」
 云いたいことを云ってしまうと、彼はオーバーを脱いだり、バンドをゆるめたりして、イキナリ、おキミの寝床にもぐり込《こ》んだ。ぼそぼそと、しばらくは小声《こごえ》で話し合っているらしかったが、やがておキミは寝床から出て行って、あとには椋島一人が、何か考え悩んでいるものか、転輾反側《てんてんはんそく》している様子だった。こうして時計は、いく度か同じ空間を廻ってやがて午後二時を報ずるボーン、ボーンという眠そうな音が階下《した》からきこえて来た。それがキッカケでもあるかのように、おキミがおこしに上って来た。
 椋島とおキミとコックの留吉との三人が外出の仕度をして店の方に出て来たのは、それから一時間ほど経ってのちのことである。
「まア、仮装《かそう》舞踊会《ぶようかい》へでもいらっしゃるの」
「ムーさん、勇敢な恰好ねえ」
 などと、ウェイトレス連が囃《はや》したてた。たしかにそれは不思議な組合わせであった。留吉はシャンとした背広に、黒い喋《ちょう》ネクタイをしめて紳士になりすましていたし、おキミはどこで借りて来たのか、三越の食堂ガールがつけているような裾《すそ》のみじかいセルの洋服をきて年齢が三つ四つも若くなっていたし、椋島は椋島で、留吉の衣裳を借りたらしく、コールテンのズボンに、スェーターを頭から被ったという失業者姿であった。
 三人は、まぶしいペイブメントのうえへ飛び出した。三人が列をそろえて一列横隊で歩き出したところへ、横丁《よこちょう》から不意にとび出して来た若い婦人がドンと留吉にぶつかりそうになった。
「ごめん、あそばせ」と婦人は豊かな白い頬をサッと桃色に染めながら言って、チラリと一行を見たが、
「呀《あ》ッ」と小さい叫声をたてた。この婦
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