く、書くべき題材を考えつかないことには、一体これはどういうことになるんだ。時刻は午前二時三十分正に丑満《うしみつ》すぎとはなった。あたりはいよいよシーンと更《ふ》け渡って――イヤ只今、天井を鼠《ねずみ》がゴトゴト走りだした。シーンと更け渡っての文句は取消しである。
 このとき梅野十伍は、憎々しげなるうわ目をつかって鼠の走る天井板を睨《にら》みつけていたが、そのうちに何《ど》うしたものか懐中からヌッと片手を出して、
「うむ、済まん」
 といいながら、天井裏のかたを伏し拝んだのであった。
 彼は急に元気づいて、原稿用紙を手許へ引きよせ、ペンを取り上げた。いよいよなにか考えついて書くらしい。
 彼はまず、原稿用紙の欄に「1」と大書した。それは原稿の第一|頁《ページ》たることを示すものであった。彼はこのノンブルを餡《あん》パンのような大きな文字で書くことが好きであった。
 原稿の第一字を認めた彼は、こんどはペンを取り直して第六行目のトップの紙面へ持っていった。いよいよ本文を書く気らしい。
「梅田十八は、夜の更くるのを待って、壊れた大時計の裏からソッと抜けだした。
 真暗なジャリジャリする石の階段を、腹匍《はらば》いになってソロソロと登っていった。
 階段を登りきると、ボンヤリと黄色い灯《ひ》の点《とも》った大広間が一望のうちに見わたされた。魔法使いの妖婆は、一隅の寝台の上にクウクウとあらたかな鼾《いびき》をかいて睡っている。機会は正に今だった」

 そこで梅野十伍は、左手を伸ばして缶の中から紙巻煙草《ケレーブン》を一本ぬきだし口に咥《くわ》えた。そして同じ左手だけを器用に使ってマッチを擦った。紫煙が蒙々と、原稿用紙の上に棚曵《たなび》いた。彼はペンを握った手を、新しい行のトップへ持っていった。
 どうやらソロソロ彼の右手が機嫌を直したらしい、彼の頭脳《あたま》よりも先に。
「――梅田十八は、恐る恐る大広間に入りこんだ。彼はよく名探偵が大胆にも賊の棲家《すみか》に忍びこむところを小説に書いたことがあったけれど、本当に実物の邸内に侵入するのは今夜が始めてだった。そのままツツーと歩こうとするが、腰がグラグラして云うことを聞かなかった。やむを得ずまた四つン匍いになって、かねて見当をつけて置いた大机の方に近づいた。
 机の上を見ると、なるほど青い表紙の小さい本が載っている。一切《いっさい》の秘密はそのなかにあるのだ。彼は勇躍して机に噛りつき、取る手も遅しとその青い本を開いて読みだした。
『アダム[#「アダム」に傍線]ガ八千年目ノ誕生日ヲ迎エタルトキ、天帝ハ彼ノ姿ヲ老婆ノ姿ニ変ゼシメラレキ、ソレト共ニ一ツノ神通力ヲ下シ給エリ、スナワチアダム[#「アダム」に傍線]ノ飼エル多数ノ鼠ヲ、彼ノ欲スルママニ如何ナル物品生物ニモ変ゼシメ得《ウ》ル力ヲ与エ給エリ、但《タダ》シソレニハ一ツノ条件ガアッテ毎朝午前六時ニハ必ズ起キ出デテ呪文ヲ三度唱ウルコト之《コレ》ナリ。モシモソレヲ怠ッタルトキハ、彼ノ神通力ハ瞬時ニ消滅シ、物ミナ旧態《キュウタイ》ニ復《モド》ルベシ、仍《ヨ》リテアダム[#「アダム」に傍線]ハ、飼育セル多数ノ鼠ヲ変ジテ多クノ男女ヲ作リモロモロノ物品ヲ作リナセリ』
 読み終った梅田十八は、非常なる恐怖に襲われた。以前から、どうもこういう気がせぬでもなかったのである。今日世の中に充満する人間のうち、ダーウィンの進化論に従って、猿を先祖とする者もあるかもしれないが、中にはまたこの妖婆アダムウイッチの日記帳にあるごとくそれが鼠からか水母《くらげ》からか知らないが、とにかく他の動物から変じて人間になっているという仲間も少くはないだろうことを予想していた。
 果然彼は猿から進化した恒久の人間にあらずして、一時人間に化けた鼠だかも知れないのである。そういえば、彼は別にハッキリした理由がないのにも拘《かかわ》らず、よく匍って歩く習慣があった。それからまた、いつぞや鏡の中に自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキョトキョトしている具合や、口吻《こうふん》がなんとなく尖って見え、唇の切れ目の上には鼠のような粗《あら》い髯《ひげ》が生えているところが鼠くさいと感じたことがあった。今やその秘密が解けたのである。――」

 というところで、梅野十伍は後を書きつづけるのが莫迦莫迦《ばかばか》しくなって、ペンを置いた。彼は好んでミステリーがかった探偵小説を書いて喝采を博し、後から「ミステリー探偵小説論」などを書いて得意になったものであったが、これではどうも物になりそうもない。彼は火の消えてしまった煙草にまたマッチの火を点けて一口吸った。
 そのとき彼がちょっと関心を持ったことがあった。それはいま書いた原稿の中に、
「――いつぞや鏡の中に自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキ
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