甚だ銷沈しているのであるか。
これには無論ワケがあった。ワケなくして物事というものは結果が有り得ない。
実はこのごろ梅野十伍にとって何が恐ろしいといって、探偵小説を書くほど恐ろしいことはないのであった。今月彼が一つの探偵小説を発表すれば、この翌月にはその小説が、すくなくとも十ヶ所の批評台の上にのぼらされ、そこでそれぞれ執行人の思い思いの趣味によって、虐殺されなければならなかった。
もしこれが人間虐殺の場合だったら、もっと楽な筈だった。なぜなら人間の生命は一つであるから、一遍刺し殺されればそれで終局であって、その後二度も三度も重ねて殺され直さぬでもよい。ところが、小説虐殺の場合は十遍でも二十遍でも引立てられていっては念入の虐殺をうけるのであるから、たまったものではない、尤《もっと》もいくたび殺されても執念深く生き換わるのであるから、執行人の方でも業を煮やすのであろうが。
執行人の多くは、いろいろな色彩に分れているにしてもいずれも探偵小説至上論者であって、新発表の探偵小説は従来|曾《かつ》て無かりし高踏的のものならざるべからずと叫んでいる。だから苟《いやしく》も従来の誰かの探偵小説が示した最高レベルに較べて上等でない探偵小説を発表しようものなら、それは飢えたるライオンの前に兎を放つに等しい結果となる。だからボンクラ作家の梅野十伍などはいつも被害材料ばかり提供しているようなものであった。
――と、彼は書けないワケを、こんなところに押しつけているのだった。しかし、元来、彼は生れつきの被害妄想仮装症であったから、どこまで本気でこれを書けないワケに換算しているのか分らなかった。実をいえば、彼にはもっと心当りの書けないワケを持っていたのである。
それはブチまけた話、彼はもう探偵小説のネタを只の一つも持ち合わせていなかったのである。さきごろまでたった一つネタが残っていたが、それも先日使い果してしまったので今はもうネタについては全くの無一文の状態にあった。しかるにこの暁方までに、なにがなんでも一篇の探偵小説を書き上げてしまわねばならぬというのであるから、これは如何《いか》に意気銷沈しまいと思っても銷沈しないわけにはゆかないのであった。
そんなことを考えているうちにも、時計の針は馬鹿正直にドンドン廻ってゆき、やがて来る暁までの余裕がズンズン短くなってゆくのだった。なにか早
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