きません。殺されてもいいです。貴方の傍にいたいのです。僕はもう、なにもかも分りました。僕が脱走した夜、街の軒下でこの庵室を教えてくれた美しい島田髷の娘さんは、誰だったか分ったのです。それは庵主さん、貴方だったのです。……」
と女装の僕は庵主を抱えようとした。
「まあ、そんなに……」
 と、若い庵主は身を引いた。
「愛する貴方を置いて、どうして僕だけ逃げられましょう。でなかったら、これから僕と一緒に逃げて下さい。僕は生命のあるかぎり、貴方のために闘います」
「貴方は男らしくないのねえ。……」と庵主は急に冷やかな顔になって、壁ぎわへ身を引いた。「そんな人、あたし大嫌いよ」
「ああ、――」僕は呻《うめ》いた。
「では、やっぱり行きます。それがお約束でした。では貴方のお身の上に、神仏の加護があることを祈っています。僕は君島で、貴方の来るのをいつまでもいつまでも待っています。……」
 そういい置いて、僕は名残り惜しくも、庵室を後にすると、暗闇の外面に走り出たのだった。


   小田春代という女


 ここは君島の、或る機関に属する洋館の窓に倚って、沖の方を眺めているのは、秀蓮尼の助けによって、危く黄風島の脱走に成功した僕だった。珍らしく、一台の飛行機が空を飛んでいるのが見える――全く秀蓮尼のお陰だった。女装していればこそ、厳重な脱走青年監視の網をくぐって無事、港にまで逃げのびられたのだった。極光丸は聞くとすぐ知れた。あとは板の上を滑るようにスラスラとうまく運んで、次の朝この君島へ着いたばかりか、船長の説明によって、このような立派な館に客となることができたのだった。
 これらの破格の取扱いは、すべて秀蓮尼の信用によるものらしかった。不思議なる人物秀蓮尼!
 彼女はどうしたことだろう。それからこっちへ既に七日、いまだに彼女の消息はなかった。僕は毎日のように、沖合から人の現われるのを待ちつづけているのだった。
 中天に昇った太陽が、舗道の上に街路樹の濃い影を落しているとき、一台の自動車が風を切ってこの通へとびこんで来た。見れば幌型《ほろがた》の高級車だった。それは館に近づくと、急に速力を落し、スルスルと滑って、目の下に着いた。――すると中から、元気よく一人の学生が飛び出して来た。
 その学生は、帽子も被っていない丸坊主だったが、いきなり僕が頭を出している二階を見上げるとヒラヒラと
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