でよびだせ」
「でも首領」とワーニャは急に不安な顔をして「そいつは大きに考え物ですぜ。あの宝物の毛をなくしたことについて博士は千萬ドルの紙幣を焼かれたようにブルブル慄《ふる》えて怒っていましたぜ。あいつはきっと復讐せずにいないでしょう。ああそれなのに、あの火星獣《かせいじゅう》の毛のことをうちの新聞に素っぱぬくなんて、彼奴の憤慨《ふんがい》の火に油を注《そそ》ぐようなものですよ。そしてもしか、社長がギャングの大将だと嗅《か》ぎつけられてごらんなさい。そのときは新聞の読者は半分以下に減《へ》りますよ。これは考えなおしたがいい」
「なにを臆病《おくびょう》なことをいいだすんだ。こんな素晴らしいチャンスを逃がすなんてえことが出来ると思うかい。引込んでいろ」
「だって首領。あの楊博士と来た日にゃ……」
「うるさい。黙ってろ」
 ウルスキーは肘掛椅子《ひじかけいす》からバネ人形のようにとびあがって、喫いかけの葉巻を力一杯|床《ゆか》にたたきつけた。
 その夜は無事に過ぎた。
 次の日のお昼休みにレーキス・ホテルに出かけたウルスキーならぬ大東新報社長ウルランド氏は、午後二時になっても社へ戻ってこなかった。十分すぎに、例の火星獣の毛の原稿を抱《かか》えて待っていた次長が、遂に待ちかねてホテルに電話をかけた。すると意外なる話にぶつかった。
「ウルランド氏の姿が、貸切りの休憩室に見えなくなっているんです。部屋には内側からチャンと鍵がかかっているのに、どうされたんでしょうか。これから警務部へ電話をして、警官に来て貰おうと思っていたところです」
「なんでもいいから早く社長を探してくれ。急ぎの原稿があるんだ。社長に早く見せないと、乃公《おれ》は馘《くび》になるんだ」
 そういった次長も、上衣《うわぎ》をつかむが早いかすぐエレベーターの方に駛《はし》っていた。社長を至急探しださねばならない。
 工部局の警官隊がロッジ部長に引率《いんそつ》されて、レーキス・ホテルにのりこんできた。休憩室の扉《ドア》は、華《はなや》かに外からうち壊《こわ》された。一行は、誰もいない室内に入ったときに、なんだか低い唸《うな》り声《ごえ》を聞いたように思ったが、室内を探してみると、猫一匹いなかった。全くの空室《あきしつ》だった。
「いいかね。ウルランド氏は室内に入ると、内側から鍵をかけて、上衣をこの椅子の上にかけ、靴をぬぎ揃えてこっちのベッドに長々と寝た。――それだけは推理で分っとる」
 とロッジ部長は得意そうに、あたりを見廻したが、事実ウルランド氏の靴も上着も、そこには見えなかったのである。社長は服装ごと、どこかに姿を消してしまったのである。
 ウルランド氏の失踪事件《しっそうじけん》は、たちまち上海《シャンハイ》の全市に知れわたった。
「大東新報社長、白昼《はくちゅう》レーキス・ホテルの密室内に行方不明となる!」
「ウルランド氏の失踪。ギャング団ウルスキー一味の仕業《しわざ》と見て、目下手配中!」
 などと、新聞やラジオでは、刻々にその捜索模様を報道して、町の人気をあおりたてた。騒ぎは、ますます大きくなってゆく。
 工部局の活動、秘密警察の協力、素人探偵の競演――などと、物すごいウルランド氏捜索の手がつくされたが、ウルランド氏の消息は更にわからなかった。
 今日こそは、明日こそはと、市民たちもウルランド氏の発見を期待していたが、すべては空《むな》しく外《はず》れてしまい、やがて二週間の日が流れた。ウルランド氏の生命は、誰の目にも、まず絶望と見られた。
 ところがここに一人、ウルランド氏の生命の安全なることを知っている人物があった。それは当のウルランド氏そのひとに外《ほか》ならなかった。
 彼は、もうかれこれ十日あまりも、町の騒擾《そうじょう》を見てくらしているのだった。彼は、ショーウインドーらしき大きな硝子《ガラス》をとおして、一部始終を眺めて暮らしているのだった。彼の前には、紛《まぎ》れもなく賑《にぎや》かな上海《シャンハイ》、南京路《ナンキンろ》の雑沓《ざっとう》が展開しているのだった。それも暁《あかつき》の南京路の光景から、明《あけ》る陽《ひ》をうけた繁華《はんか》な時間の光景から、やがて陽は西に傾《かたむ》き夜の幕《とばり》が降りて、いよいよ夜の全世界と化《か》した光景、さては夜も更《ふ》けて酔漢《すいかん》と、彼の手下どもが徘徊《はいかい》する深夜の光景に至るまで、大小洩《だいしょうも》れなく、南京路の街頭を見つくし見飽《みあ》きているのだった。
 どうしたことからこうなったのか、彼には始まりがよく分らなかった。
 ともかくも、捕虜《ほりょ》になったなと気がついたときは、今から十日ほど前のことだ。彼はこのショーウインドーの中に長々と伸びていたのだ。
 それからこの細長いショーウインドーの中の生活が始まった。彼は一歩もその中から出されなかったのだ。
 彼の目の前を過ぎゆく人に向って、SOSを叫んだ。硝子をドンドン叩いて、通行の人の注意を喚起《かんき》した。しかし誰一人、彼の方を見る者がなかった。
「変だなア。なぜ、こっちを見てくれないんだろう」
 彼は諒解《りょうかい》に苦しんだ。彼の鼻の先に男や女がとおるのである。それにも拘《かかわ》らず、誰もこっちを向いてくれない。こんな情《なさ》けない話はなかった。
 或るときは、市民の一人がショーウインドーに背をもたせかけて、大東新報を読みだした。彼は自分の失踪事件がデカデカとでてるのを知った。
「おい、ウルランドはここにいるんだ」
 とその男の背中と思うあたりの硝子を破《わ》れんばかりに叩いたが、彼は背中に蚤《のみ》がゴソゴソ動いたほども感じないで、やがて向うへいってしまった。
 三日目に、手下のワーニャが乾分《こぶん》をつれてゾロゾロと通っていった。彼は必死になって、手をふり足を動かし、ゴリラのように喚《わめ》いたが、それもやっぱり無駄に終った。
 雑沓のなかの無人島に、彼はとりのこされているのだ。普通の無人島ならば、救いの船がとおりかかることもある。だが、この細長い巷《ちまた》の無人島は、完全に人間界を絶縁《ぜつえん》されてあった。
 三度三度の食事だけは、妙な孔《あな》からチャンと差入れられた。それは子供が食べるほどの少量だったので、彼はいつもガツガツ喰った。
 排泄作用《はいせつさよう》が起ったときには、そこに差入れてある便器《べんき》に果《は》たした。はじめは雑沓《ざっとう》する大通りを前にして、とてもそんな恥《はず》かしいことは出来なかったが、どうやらこっちから往来が見えても、外からこっちが見えないと分ってからは、すこし気が楽になった。そのうち彼は往来を檻《おり》の中の猿のようにジロジロ眺《なが》めながら用を足すまでになった。
 通行人の新聞面を見ていると、いよいよ彼ウルランド氏の生命は絶望となったと出ていた。彼はもうすっかり弱りきって、腹を立てる元気もなかった。
 十一日目に、はじめて彼のうしろの壁から人の声が聞えてきた。
「悪漢《あっかん》ウルスキーよ。その硝子函《ガラスばこ》の居心地《いごこち》はどうじゃネ」
「あッ、――」とウルランド氏は顔色をかえた。それは正《まさ》に、例の楊博士《ヤンはかせ》の皺枯《しわが》れ声《ごえ》に相違なかったのである。
「はッはッはッ。今ぞ知ったか。消身法《しょうしんほう》の偉力《いりょく》を」
「なにッ」
「汝《なんじ》の手に触《ふ》れる板硝子と、往来から見える板硝子との間には、五十センチの間隙《かんげき》がある。その間隙に、儂《わし》の発明になる電気|廻折鏡《かいせつきょう》をつかった消身装置が廻っているのだ。汝《なんじ》の方から見れば外が見えるが、外から見ると何も見えないのだ。どうだ分ったか」
 ウルランド氏は蒼白《そうはく》になって戦慄《せんりつ》した。
「おいひどいことをするな。早くここから出してくれ。貴様の云うことは何でも聞くからここからすぐ出してくれ」
 楊博士は薄笑いをして、
「まあ当分そこに逗留《とうりゅう》するがいい。だが町もいい加減《かげん》見飽《みあ》きたろうから、消してやろう」
 そういった声の下に、今まで見えていた往来《おうらい》が、まるで日暮れのように暗くなり、やがて真暗《まっくら》なあやめも分らぬ闇と変りはてた。その代り電灯が一つポツンとついた。
 それと入れ代って、繁華《はんか》な南京路《ナンキンろ》の往来では、俄《にわ》かに騒ぎがはじまった。ショーウインドーの中で、半裸体《はんらたい》になった紳士が、いかがわしい動作を通行人に見せているというので、たいへんな人だかりだった。
 そのうちに、何だあれは行方不明のウルランド氏ではないかといい出した者があり、それは一大事だと騒ぎはますます大きくなっていった。これは楊博士が、消身装置の廻折鏡を反対に廻したために、今まで見えていたショーウインドー外《がい》の光景が見えなくなり、その代り今まで外から見えなかったショーウインドーの内部が明らさまに見えるようになったのだった。そういうこととはしらず、ショーウインドーの中のウルランド氏は悠々と公衆の面前で用をたしている。市民は愕《おどろ》きかつ呆《あき》れ、やがてはとめどもなく笑いだした。なんという無恥《むち》であろうか。
 警官隊が駈けつけたが、そのウルランド氏を堅固《けんご》な硝子函《ガラスばこ》の中から救いだすには、まる一日かかった。二枚の板硝子の間に仕掛けられていた楊博士の消身装置は、その救助作業のうちに壊《こわ》されてしまった。
 救い出されたウルランド氏は、転《ころ》んでも只《ただ》は起きない覚悟で、遭難記を自分の大東新報に掲《かか》げたが、それは市民たちの侮蔑《ぶべつ》を買っただけであった。社交界にウルランド氏が現れたときは、さすがの貴婦人たちも、一せいに背中を向けた。誰も彼もニュース映画によってウルランド氏の生理現象を詳《つまびら》かに見ていたので、そういう人物と握手しようとは、誰一人として思わなかったのである。
 ここに於《おい》て楊博士の復讐《ふくしゅう》は、ようやく成ったようであるが、その後、この広い上海《シャンハイ》のなかに博士の姿を見た者は只の一人もなかった。



底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
   1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2002年10月21日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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