る筈だった。だから月世界に、乗合《のりあい》バスぐらいの大きさのものがあったとしたら、それは新望遠鏡には丁度一つの微小《びしょう》な点となって見えるだろうという……。
「ミドリさんに早く知らせてやろうと思うが、何処《どこ》へ行ったんだろうな。……」
 と、蜂谷学士はロケットの胴中《どうなか》を出て、土間《どま》に下り立った。
「ミドリさーん。……」
 学士は大きな声をだして、女理学士の名を呼んだ。だがどこにも返事がなかった。彼の顔は俄《にわ》かに不安に曇《くも》った。
「どこへ行ったんだろう。オイ進君、君も探してくれ。
 ……ミドリさーん。……」
「えッ、ミドリさんがいないのですか」
 進少年もロケットの胴中から飛び出して来た。
「ミドリさーん」
 二人は声を合わせてミドリの名を呼びながら、小屋の戸を開いて外へ出てみた。外は真昼のように明るかった。八月十五日の名月が、いま中天《ちゅうてん》に皎々《こうこう》たる光を放って輝いているのだった。……
「おお、ミドリさん。……こんなところにいたんですか。一体どうしたというんです」
 学士は、戸外に悄然《しょうぜん》と立っているミドリの姿を見て、愕《おどろ》きの声を放った。


   出発直前の殺人


 彫刻のように立っていたミドリは、このとき右腕をあげて無言で前方を指した。
「ナ、なッ……」
 学士は愕いて、ミドリの指す前の草叢《くさむら》を見た。
「呀《あ》ッ。……羽沢《はざわ》飛行士が倒れている! これはどうした。ああッ……」
 傍《かたわら》へかけよってみると、乗組員の一人である飛行士が白いシャツの胸許《むなもと》のところを真赤《まっか》に染めて倒れていた。調べてみると、彼は心臓の真上を一発の弾丸で射ぬかれて死んでいた。一体こんなところで誰に撃ち殺されたのだろう?
「……ああ、おしまいだ。折角《せっかく》のあたし達の探険……」
 ミドリは悲しげに叫ぶと、ガッカリしたのか、大地の上にヘタヘタと身体を崩《くず》した。それは見るも気の毒な気の落としようだった。ミドリの兄は天津百太郎《あまつももたろう》といって、失踪《しっそう》したロケットの操縦士だった。彼女はこんどの探険を企《くわだ》てたのも、恨《うら》みをのんで死んだろうと思われる兄の霊《れい》を喜ばそうためだった。それだのに羽沢飛行士は壮途《そうと》を前にして、突然死んでしまった。ミドリの悲しみは、察するだに哀《あわ》れなことだった。
「……仕方がない。これも神さまのお心かもしれないよ」と艇長はやさしく彼女の肩に手をおいて云った。「残念だが、このたびは中止をしよう」
 そのときだった。向うの街道《かいどう》から、ヘッドライトがパッとギラギラする両眼をこっちに向けて、近づいてくる様子。
「ああ、誰かこっちへ来る……」
 と、進少年は叫んだ。
 近づいて来たのを見ると、それは競争用の背の低い自動車だった。やがて自動車は、小屋の前に止り、中から出てきたのは、色の浅ぐろい飛行士のような男だった。
「ああ、猿田さんだッ……」
 猿田とよばれた男はツカツカと一同の前に出てきて、
「ああ皆さん。御出発に際して、お見送りの言葉を云いに来ましたよ」
 ミドリはそのとき、スックと立ち上った。
「ああ猿田さん。いいところへ来て下すったわ。……貴方《あなた》この宇宙艇を操縦して月世界《つきのせかい》へ行って下さらない」
「ああミドリさん、ちょっと……」
 と艇長の蜂谷学士がとどめた。しかしミドリはその言葉を遮《さえぎ》ってまた叫んだ。
「ね、猿田さん。行って下さるでしょうネ。貴方が操縦して下さらないと、あたしたちは十年目に一度くる絶好のチャンスを逃がしてしまうんですもの。ぜひ行って下さいナ。……貴方は前からこの宇宙艇を操縦したいといってらしたわネ」
「ええ、お嬢さん。僕は決心しましたよ。僕がこの艇を操縦してあげましょう」
「まあ待ちたまえ」
 と蜂谷学士が云いかけるのを、ミドリは
「……まア蜂谷さん。まさか貴方はこれから十年して、あたしがお婆さんになるのを待って、月の世界にゆけとおっしゃるのではないでしょうネ」
「……」
 蜂谷学士は、なぜか猿田飛行士が探険に加わることを好まぬ様子だったが、ミドリは滅多《めった》に来ないチャンスを惜しむあまり、とうとう羽沢飛行士の代りに猿田飛行士を頼むことにきめてしまった。
 艇の出発はいよいよ間近《まぢ》かになった。のこっているのは、飲料水の入った樽《たる》がもうあと十個ばかりだった。一同は力をあわせて、この最後の荷物を搬《はこ》びこんだ。
「さあこれで万端《ばんたん》ととのった。……進君、もう一度宇宙艇のなかを探してくれたまえ。万一密航者などがコッソリ隠れていると困るからネ……」
 厳重《げんじゅう》な艇内捜索が
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