定の時刻が来たから、早く気球の綱《つな》をとくようにいってくれたまえ」
「へえ、やっぱり六条さんは、一人で上へあがるのですか」
「さっきから幾度もそういっているじゃないか。係員にそういってくれ。ぐずぐずしているようなら勝手にこっちが綱を切ってとびあがるぞと、きびしく一本|突込《つっこ》んでおいてくれ」
「えっ、気球の綱を切る? あなた、いくら冗談でもそんな乱暴なことをいうものじゃありませんよ。気球の綱を切れば、地球の外へ吹き流されてしまうじゃありませんか」
「はっはっはっ。もういいから、早く係員に催促《さいそく》をしてきてくれ」
「へえ、かしこまりました」
老人が向うへかけだしてゆくと、気球のところには六条壮介ひとりとなってしまった。風は相変らずひゅうひゅうと耳許《みみもと》に唸《うな》って、地上わずかに一メートル上のゴンドラが、がたがた揺れる。闇の空をすかしてみると、気球は天に吠えているように巨躰をぐらぐらゆすぶっていて、気になるほど、綱がぎしぎしいっている。
六条の待っている係員は、一向姿をあらわさなかった。
「なにをしているんだろう」
と舌打して、彼は真暗な××陣地一帯をずーっと見まわした。すると、ときどき蛍《ほたる》の火のように、懐中電灯がいくつもちらちら点滅するのが見られた。捜索隊にちがいない。
「ふん、やっぱり本当なんだな。怪しい奴がしのびこんだというのは……」
だが、きびしい軍律の中で生活してきた「火の玉」少尉にとっては、たとえ傍に何事があろうと、気球が予定の時刻に上昇しないことについて甚《はなは》だ不満であった。
「しようがないなあ。降りていって、一つうんと文句をいってやろうか」
と思っていると、ゴンドラが急にごとんと大きく揺《ゆ》れて、地上から二三メートル上に飛びあがった。それは地上に置いてある信号灯が俄《にわ》かに遠くなったことからも知られた。
「おや、どうしたのかな」
そういっているうちに、ゴンドラはまた一つごとんと揺れて、また二三メートル上に飛びあがった。
「はてな、――」
そのとき少尉は、地上の信号灯の前に一つの人影が大童《おおわらわ》になって綱を解こうとしているのを認めた。
「おお、やっと気球係の地上員がやって来たんだな。いくらなんでも、たった一人では、ちと無理だ」
そういっているとき、ゴンドラはまた大きくごとんと揺れ、とたんに彼の手はゴンドラの縁《ふち》からはずれ、彼は芋《いも》のようにゴンドラの底をごろごろと転った。
彼が起き直ったとき、気球は風の中を、もうぐんぐん上昇していた。
地上からは、懐中電灯がいくつも、こっちに向って動いている。ところがその灯《あかり》は、どれもこれもしきりに十字を描いているのだった。
十字火信号! ああそれは「要注意《ようちゅうい》」の信号であったではないか。
「なにが『要注意』なんだ!」
と、「火の玉」少尉は、小さくなりゆく地上の灯をみつめていた。
「要注意」の信号
「火の玉」少尉が、空中の異変に気がついたのは、それからしばらくして、風の中に××陣地のサイレンの響を聞き、それに続いて××陣地にありったけの照空灯が、彼の乗った気球の方に向けられたときだった。
それまでのところは、彼は地上員が多忙《たぼう》の中を駈けつけて、彼のために繋留《けいりゅう》気球第一号の綱をゆるめてくれたものとばかり考えていた。
ところが、それから後《のち》のサイレンやら照空灯のものものしい騒ぎがはじまるに及んで、彼はやっと或る疑惑を持ったのである。
「おかしいなあ。一体地上ではなにを騒いでいるのだろう」
彼の外に、誰も乗らないといっていたが、やはりまだ乗る者があったのではなかろうか。それで「要注意」などと騒いでいるのではなかろうか。
だが、それにしては、なぜ「出発待て」の信号を発しなかったのであろうか。「要注意」の信号は、どうも腑《ふ》におちない。
いや、腑におちないのは、こうして××陣地ありったけの照空灯が、こっちの気球のあとを追駈けてくることだ。こっちの出発が、陣地の方に都合がわるければ、綱を引張ってこの気球を引きおろせばいいではないか。なぜそうやらないのであろうか。
さすがの「火の玉」少尉も、すこし不安な気持になって、照空灯の眩《まぶ》しい光芒《こうぼう》を手でさえぎりながら、地上の騒ぎをじっと見下していた。
そのうちに、彼ははじめてたいへんなことに気がついた。それは彼の乗っている気球の綱のことであった。綱が一本、ぷつんと短く切れて、照空灯の光の中にぶらぶらしていたのである。
「おや、あの綱は切れているぞ」
思わず彼は、声をあげて愕《おどろ》いたが、それから更に他の綱に眼をうつしたとき、もっと大きな愕きが彼を待っていたのである。
「呀《あ》っ、あの綱も切れている!」
彼はゴンドラの縁《ふち》にしがみついたまま、一本の綱から他の綱へと、後を追っていった。その結果、気球を繋留《けいりゅう》していた六本の綱が悉《ことごと》く切断されていることを発見したのである。言葉をかえていえば、もはやこの気球を地上に繋《つな》いでいる一本の綱も無いのであった。ああ繋留索《けいりゅうさく》のない気球は、一体どこへ行くのであろうか。
「うん、こいつは失敗《しま》った!」
「火の玉」少尉の全身を、熱湯《ねっとう》のような血が逆流した。
「失敗った、失敗った、失敗った!」
彼はゴンドラの縁をつかんで、動物園の猿のようにゆすぶった。時刻がたつに従って、大きくなる災禍《さいか》であった。
地上では、こんどは照空灯が、十文字にうごいて、「要注意」を知らす。
「要注意」も、今さら遅いという外ない。
そのとき彼は、ゴンドラの中に、無電器械がありはしないかと気がついたので、腰をかがめて、あたりをふりかえった。
「うむ、あるぞ。あれがそうらしい」
ゴンドラの中の、微《かす》かな灯火のうちに、無電器械の黒ぬりのパネルが眼についたのだ。彼は飛行将校として、一応無電器械の知識もあったから、どっちが受信器のパネルで、またどっちが送信器のパネルか、見分けがついた。彼はいそいで受話器を頭にかけるとスイッチを入れた。真空管が、ぱっと明るくついた。
しばらくすると、受話器の奥から、声がとびだした。
「ハア、××繋留気球第一号。こっちは××陣地です。ハア、××繋留第一号。こっちの声が聞えますか。只今○○飛行隊と連絡をとり、飛行機隊が追跡してくれることになりましたから、安心して下さい。ハア、××繋留気球第一号! こっちの声が聞えましたら、そっちから電波を出して下さい」
××陣地の通信員の声だ。
それを聞くと、六条は勇気百倍の思いがした。地上でも、この気球が繋留をはずれて空中に漂流しだしたことをちゃんと気づいているのだ。そして飛行隊が急遽出動して、この気球の救援に赴《おもむ》くことになったそうだ。このうえは、こっちの所在を地上なり救援の飛行機に知らせることさえ忘れなければいいのだ。それは無電器械の送信器を働かせてマイクへこっちの声をふきこめばいいのである。
六条は、左手をのばして、無電器械の送信器にスイッチを入れた。パイロット・ランプが明るくついた。真空管はキャビネットの中で光っている。彼は揚《あ》げ蓋《ぶた》をひいて、その中から長い紐線《コード》のついたマイクをとりだし、口のところへ持っていった。
「ハア、こっちは繋留気球第一号です。六条|壮介《そうすけ》が送信をしています。いま気球は、風に流されつつ、ぐんぐん上昇しています。気圧は只今、七百……」
といって、六条が傍の夜光針《やこうしん》のついた気圧計に眺め入ったとき、突然何者とも知れず、マイクを握った彼の左手をぎゅっと掴《つか》んだ者があった。
思わざる怪影
「ああっ、――」
豪胆《ごうたん》をもって鳴る「火の玉」少尉も、全く思いがけないこの不意打には、腹の底から大きな愕《おどろ》きの声をあげた。
闇夜《あんや》の空を漂流《ひょうりゅう》中のゴンドラの中には、彼ただひとりがいるばかりだと思っていたのに、意外にも意外、突然マイクを持つ手首をぎゅっと掴まれたのだから、この愕きも尤《もっと》もであった。
「だ、誰だ!」
味方か、敵か?
「火の玉」少尉がうしろへふりむくのと、彼の左手首のうえに、焼きつくような激しい痛味を覚えるのと、それが同時であった。
「あっ、な、なにをするッ」
といったが、手首は骨まで折れたかと思うようなひどい疼痛《とうつう》で、眼があけていられないくらいだ。でも「火の玉」少尉の眼は、その奇々怪々なる相手の姿をとらえた。
「き、貴様、何者だ!」
怪漢は、白い歯をむきだすと、彼の背後から組みついた。ひどい剛力《ごうりき》だった。
「日本人《ヤポンスキー》、黙れ。生命が惜しければ、反抗するな」
そういう相手の言葉は、ロシア語であった。
(ははあ、ソ連人だな!)
この闖入者《ちんにゅうしゃ》は、さっきもいったとおり、なかなかの剛力だった。そのうえ、「火の玉」少尉は、左手首に不意打をくっていて、いまだにそれが痺《しび》れているのだった。だから力もなんにも入らない。それを承知でか、相手は六条の頸《くび》にまきつけた腕をぐんぐん締めつけてくる。
「うーむ、こいつ……」
「火の玉」少尉にとっては、二重の危難《きなん》であった。いずれも予期しなかった不意打の危難であった。たいていのものなら、もうこの辺で他愛なく気絶をしているところであるが、危難が大きければ大きいほど、強くはねかえすのが「火の玉」少尉の身上だった。彼はいま、もうすこしで息が停ろうというのに、横眼をつかって、ゴンドラの中の大切な器械器具の配列位置を頭脳の中につめていた。
「日本人、はやくくたばれ!」
闖入《ちんにゅう》の怪ソ連人は、さらに六条の頸にまいた腕に力を入れた。
「うーむ」
と唸《うな》って、「火の玉」少尉の上半身が後にのけぞる。
「日本人、まだ死なぬか!」
「うーむ」
「火の玉」少尉の上半身は、蝦《えび》のようにうしろにのけ反《ぞ》った。彼の背後から組みついている怪ソ連人までが、硬い少尉の頭を胸にうけかねて、ゴンドラの縁《ふち》にひどく押しつけられた。
「こら、そう反《そ》っくりかえるな。始末にわるい奴だ、うん」
と、怪ソ連人が、六条の身体を前に押しかえしたそのときのことだった。
「えい、やっ!」
ふりしぼるような叫びごえが、今の今まで死んだようになっていた、「火の玉」少尉の咽喉《のど》の奥からとびだした。と、彼の身体が水の中にもぐるような恰好で、すとんと沈んだ。
「わわっ、――」
奇妙な悲鳴とともに、少尉の背後に組みついて勝ち誇っていた怪ソ連人の身体が、南京《ナンキン》花火のように一転して、どさりと前方へ飛んでいった。
このとき「火の玉」少尉がもし手を放したとすると、怪ソ連人の身体は、ゴンドラの縁《ふち》の上をとび越えて、あっという間に、なんの掴《つか》まりどころもない空間に放りだされていたことであろう。少尉はそれを心得ていたと見え、相手の袖を手許へぐっと引張りつけたので、相手はゴンドラの角《かど》で、いやというほど尻の骨をうったまま、身体を逆《さか》さにしてずるずると籠の中にくずれ落ち、そのまま動かなくなった。なにゆえに敵を助けるのか、「火の玉」少尉の心中は測《はか》りかねた。
「どうだ、もう一度来るか」
少尉は、足を伸ばして怪人の頭を蹴とばした。だがかの怪人は、気絶でもしているのかなんの反抗も示さなかった。
その間にと思って、「火の玉」少尉は再びマイクをとりあげ、急ぎの報告を電波に托《たく》すつもりで、
「ハア、こっちは××繋留気球第一号の六条です。電波はつづいて出ているでしょうな。このゴンドラの中に、ソ連人が一名忍びこんでいました。どうやらゴンドラの外からのぼってきたもののようです。今気絶していますが、あとでよく調べあげて、知らせます」
そういう少尉の声は、普段話をしているときとす
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