な雲が一ぱいひろがっていて、上からは案外|見透《みとお》しがきかないんだぜ」
 キンチャコフは、得意らしく喋りたてた。「火の玉」少尉は、キンチャコフが、ソ連仕立のかなり優秀なスパイであることを見破った。そうなると、これからさらに一層、油断はならないわけだ。
 やがて午前三時をすこし廻って、月が出た。それから一時間半ほどたつと、東の天が白くなった。
 前夜以来、しきりに呼びつづけていた××陣地からの無電が、急に小さな音響になってしまった。そして間もなく、なんにも聞えなくなった。
 それっきり救援の飛行機も、こっちへ追駈けてこなくなった。
 ただ涯しなく拡がった雲海《うんかい》のうえを、気球は風のまにまに漂流しつづけるのであった。その外《ほか》に、生物の影は、なに一つとしてうつらぬ。このひろびろとした雲海は、天国へ到る道であるのかもしれない。二つの屍《しかばね》を埋《うず》めるのは、どの雲のあたりであろうかなどと、「火の玉」少尉もあまりの荒涼《こうりょう》たる天上の風景に、しばし感傷の中におちこんだのであった。


   鋭い牙


「ねえ、六条。気球が上昇をストップしたようだぞ」
 寒そうに身体を叩《たた》いていたキンチャコフが、送信器の解体に夢中になっている六条にいった。
「ふん、なんだか動きもしなくなったようではないか」
 六条が相槌《あいづち》をうった。高度計を見ると、実に八千メートルの高空だ。いくら夏でも、これは寒いはずだ。
 気球は、ぴーんと膨《ふく》れきっている。
「これじゃ天井にくっついた風船みたいで、一向面白くない」
 キンチャコフが呑気《のんき》そうな口を叩いた。
「おい、貴様は無電の知識をもっとらんのかね」
 六条がたずねた。
「さあ、さっぱり駄目だねえ」
 と、キンチャコフは気のなさそうな返事をした。キンチャコフの方が、六条よりも死生を超越《ちょうえつ》しているらしく見える点があって、「火の玉」少尉も少々|癪《しゃく》にこたえている。しかし、単にぐうたらに生きるものと、帝国軍人としてその本分に生きるものとは、どうしてもちがうのがあたり前で、六条の方が臆病だというわけではない。
「おおっ、気球が下りだしたぞ。ああ、ありがたい。温くなるだろう。ふん、あの辺の雲の中へとびこむな」
 キンチャコフがはしゃぎだした。
 六条は、とうとう無電器械のことをあき
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