ろざし》は有難い」と長造は一つペコンと頭を下げたが、それは申訳《もうしわけ》に過ぎないようだった。「だが、この東京市に敵国の飛行機なんて、飛んで来やしないよ。心配しなさんな」
「そんなことありませんよ。東京市位、空中襲撃をしやすいところは無いんですよ。僕は雑誌で読んだこともあるし、軍人さんの講話《こうわ》も聴いた――」
「大丈夫だよ、お前」長造は、呑みこみ顔《がお》に云った。「日本の陸軍にも海軍にも飛行機が、ドッサリあるよ。それに俺等《わしら》が献納《けんのう》した愛国号も百台ほどあるしサ、そこへもってきて、日本の軍人は強いぞ、天子様《てんしさま》のいらっしゃるこの東京へなんぞ、一歩だって敵の飛行機を近付けるものか。お前なんぞ、知るまいが、軍備なんて巧く出来ているんだ」
「空の固めは出来てないんだって、その軍人さんが云いましたよ」
「莫迦《ばか》、そんなことを大きな声で云うと、お巡《まわ》りさんに叱られるぞ。お前なんか、そんな余計な心配なぞしないで、それよか工場がひけたら、ちと早く帰って来て、お湯にでも入りなさい」
「弦ちゃん、お前は、こんなことで毎日帰りが遅かったのかい」黄一郎《きいちろう》が、横合《よこあい》から口を出した。
弦三は、黙って点《うなず》いた。
「瓦斯マスクなんてゴムで作ってあるから永く置いてあると、ボロボロになって、いざというときに役に立たないんだぜ。どうせゴム商売で儲《もう》けようと云うんだったら、マスクよりも矢張《やは》りゴム靴の方がいいと思うね」
「儲けなんか、どうでもいいのです」弦三は恨《うら》めしそうに兄を見上げた。「いまに東京が空襲されたら大騒ぎになるから、市民いや日本国民のために、瓦斯マスクの研究が大事なんです」
「瓦斯マスクのことなんか、軍部に委《まか》しといたら、いいじゃないか。それに此後《このご》は戦争なんて無くなってゆくのが、人間の考えとしたら自然だと思うよ。聯盟だって、もう大丈夫しっかりしているよ。聯盟直属の制裁軍隊《せいさいぐんたい》さえあるんだからね」
「戦争なんて、野蛮だわ」紅子が叫んだ。
「でも万一、外国の爆撃機がとんできたら、恐ろしいわねエ」
と云ったのは姉娘のみどりだった。
「もう五年ほど前になりますけれど、上海《シャンハイ》事変の活動で、爆弾の跡を見ましたけれど、随分おそろしいものですねエ。あんなのが此辺《このへん》に落ちたら、どうでしょう」嫂《あによめ》の喜代子が、恐怖派に入った。
「きっと、爆弾の音を聞いただけで、気が遠くなっちまうでしょうよ。おお、そんなことのないように」みどりが、身体を震《ふる》わせて叫んだ。
「大丈夫、戦争なんて起こりゃせん」黄一郎が断乎《だんこ》として言い放った。
「ほんとかい」今まで黙っていた母親が口を出した。「あたしゃ清二《せいじ》の様子が、気になってしようがないのだよ」
「清《せい》兄さんはネ、お母さん」素六《そろく》が呼びかけた。「この前うちへ帰って来たとき、また近く戦争があるんだと云ってたよ」
「おや、清二がそう云ったかい。あの子は、演習に行くと云ってきたが、もしや……」
「お母さん、もう戦争なんて、ありませんよ。理窟《りくつ》から云ったって、日本は戦争をしない方が勝ちです。それが世界の動きなんだから」
「戦争があると、商売は、ちと、ましになるんだがなァ。このままじゃ、商人はあがったりだ」
「なんだか、折角《せっかく》のお誕生日が、戦争座談会のようになっちまったね。さア私はお酒をおつもりにして、赤い御飯をよそって下さい」
黄一郎が、盃を伏せて、茶碗を出した。
「じゃ、お汁をあげましょう」お妻はそう云って、姉娘の方に目くばせした。「みどり、ちょっと、お勝手でお汁のお鍋を温《あたた》めといで」
「はい」
みどりは勝手に立った。
ミツ坊は、いつの間にか、喜代子の胸に乳房を銜《くわ》えたまま、スウスウと大きな鼾《いびき》をかいて睡っていた。
「可愛いいもんだな」長造が膳越《ぜんご》しに、お人形のような孫の寝顔を覗《のぞ》きこんだ。
「今日は、皆の引張《ひっぱ》り凧《だこ》になったから、疲れたんですよ。まあこの可愛いいアンヨは」
お妻が、ミツ子の足首を軽く撫でながら、口の中にも入れたそうにした。
「ミツ坊が産れたんで、家の中は倍も賑《にぎや》かになったようだね」
長造は上々の御機嫌で、また盃を口のあたりへ運ぶのだった。一家の誰の眼も、にこやかに耀《かがや》き、床の間に投げ入れた、八重桜《やえざくら》が重たげな蕾《つぼみ》を、静かに解いていた。まことに和《なご》やかな春の宵《よい》だった。
そこへ絹ずれの音も高く、姉娘のみどりが飛びこんで来たのだった。
「大変ですよ、お父さま。ラジオが、今、臨時ニュースをやっていますって!」
「
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