や》下田長造《しもだちょうぞう》の妹娘の紅子と、末子《すえっこ》の中学生、素六とが、一隅《いちぐう》に慄えていることだった。
 そもそも、あの善良なる素六《そろく》少年と、モダン娘の紅子《べにこ》とは、一体どうした訳で、こんな一団に加わっているのであろうか。
 それについては、空襲下の下町方面《したまちほうめん》の情況について、少しばかり述べて置かねばならない。


   G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の侵入《しんにゅう》


 下町方面は、古くから、空襲教練が、たいへん行届いている模範的の区域だった。たびたびの防空演習に、町の人々は、いつも総出で参加した。すこし芝居好きのところは、あったにしても、あれほど熱心に、灯火管制の用意に黒色《こくしょく》電灯カバーを作ったり、押入《おしいれ》を改造して、防毒室を設けたり、配電所に特別のスイッチを設《もう》けたりして、骨身を惜《おし》まないのは、感心にたえなかった。
 それが、あの本物の空襲下に曝《さら》されて、どこの区域よりも二三倍がた、混乱ぶりのひどかったことは、まことに意外の出来ごとだった。そのような大混乱の元は、なんであるかというと第一に、いつもの演習は、少壮気鋭《しょうそうきえい》の在郷軍人会の手で演じていたのが、本物の空襲のときには、その在郷軍人たちの殆んど全部が、召集されて、某国へ出征していたために、残っている連中だけでは、どうもうまく行かなかったこと。第二には、しっかりした信念がなくて、流言蜚語《りゅうげんひご》に、うまうまと捲きこまれ秩序が立たなかったこと。この二つの原因が混乱の渦巻を作ってしまった。
 鼻緒問屋、下田長造の三男で、防毒マスクの研究家だった弦三が、自作のマスクを背負って、新宿附近に住む長兄黄一郎親子に届けるために、花川戸を出たのは、敵の飛行隊が帝都上空に達するほんの直前のことだった。
 弦三は、なんのことはない、死の一歩を踏みだしたようなものだった。まず駈けつけた地下鉄の中で、彼は、避難群衆に、不穏《ふおん》の気が、みなぎっていることを、逸早《いちはや》く見てとったのだった。弦三の乗りこんだ地下電車が、構内を離れて間もなく、不穏分子の振舞《ふるまい》は、露骨《ろこつ》になって行った。
 兼《か》ねて、手筈ができていたものと見え、地下鉄の駅長は、避難してくる群衆を、無制限に地下構内へ入れすぎるという、極くつまらない理窟《りくつ》をもって、群衆の袋叩《ふくろだた》きに合ったのだった。暴徒の一味は、群衆が、興奮した様子につけこんで、今度は、切符売場を襲撃したのだった。金庫は、みるみる破壊され、銀貨や紙幣が、バラバラと撒き散された。群衆は恐さも忘れて、慾心《よくしん》まるだしに、金庫を目懸けて突進した。五十銭銀貨を一枚でも、掌《てのひら》の中につかんだものは、強奪の快感の捕虜となって、ますます興奮を、つのらせて行った。五円紙幣を手に入れたものは、顔までが、悪魔の弟子のようになった。獣心《じゅうしん》が、檻を破り、ムラムラと、飛びだした。一味の者は、細心の注意をもって、機会を見ては、巧みに、煽動した。居合わせた婦女子は、駭《おどろ》きのあまりに、失心《しっしん》する者が多かった。正義人道を口にするものが、四五人もいて頑張れば、群衆の冷静さを、幾分とりもどせたろうと思われたが、誰もが呆然自失《ぼうぜんじしつ》していて、適当な処置を誤《あやま》ったのだった。一味の計画は、すっかり、図に当った。
「××人が、本当に暴れだしたぞォ」
「東京市民は、愚図愚図《ぐずぐず》していると、毒瓦斯で、全滅するぞ。兵営に、防毒マスクが、沢山貯蔵されているから、押駆けろッ」
「デパートを襲撃して、吾等の払った利益をとりかえせ」
「国防力がないのなら、戦争を中止しろッ」
「放送局を占領しろッ」
 などと、さまざまな、不穏指令《ふおんしれい》が、街頭に流布《るふ》された。
 警官隊も、青年団も、敵機の帝都爆撃にばかり、注意力が向いていて、暴徒が芽をだしはじめたときに、早速《さっそく》苅りとることに気がつかなかった。
 暴徒一味の煽動は、さまざまの好餌《こうじ》を、市民の中にひけらかし、善良な人達までが、羊の皮を被った狼に騙《だま》されて、襲撃団の中に参加したのは、物事が間違う頃合いにも程があると、後になって慨《なげ》かれたところだった。
 若い青年男女は、鮎《あゆ》のとも釣[#「とも釣」に傍点]のようなわけで、深い意味もわからず、その団体に暴力を以て加盟させられた。一味幹事の統制ぶりは、実に美事であった。いろいろな別働隊が組織され、各隊は迅速《じんそく》に、行動に移った。
 長造の妹娘の紅子《べにこ》と、末ッ子の素六《そろく》とは同じような手で、参加を強《し》いられた。
 長造とお妻が
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