そんなにまで一心になって、迫りくる毒瓦斯から脱れようと人々は藻掻《もが》いたが、一尺逃げると二尺押返えされ、一人を斃《たお》すと、二人が押して来、そのうちに、咽喉のあたりが、チカチカ痛くなった。
「瓦斯だッ」
と気のついたときには、既に遅かった。魚の腸《はらわた》が腐ったような異臭が、身の周《まわ》りに漂《ただよ》っているのだった。胸の中は、灼鉄《やきがね》を突込まれたように痛み、それで咳《せき》が無暗《むやみ》に出て、一層苦しかった。胸から咽喉のあたりを締めつけられるような気がした。金魚のように、大きく口をパクパクやったが、呼吸はますます苦しくなった。頭がキリキリと痛くなり、眩暈《めまい》がしてきた。前の人間の肩をつかもうとするが、もう駄目だった。地球が一と揺れゆれると、堅い大地が、イヤというほど腰骨にぶつかった。全身が、木の箱か、なんかになってしまったような感じだった。
「うー、痛ッ」
誰かが、太股を踏みつけた。
「うーむ」
腹の上を、靴で歩いている奴がいる。
「うわーッ」
胸の上で躍っているぞ。肋骨が折れる、折れる。
「ぎゃーッ」
頭を足蹴《あしげ》にされた。腹にも載《の》った。胸元《むなもと》を踏みつけては、駆けだしてゆく。あッ、口中《こうちゅう》へ泥靴を……。
あとは、なにがなんだか判らなかった。
パタリパタリと、群衆は、障子《しょうじ》を倒すように、折重なって倒れていった。
街の片端から、メラメラと火の手があがった。濛々《もうもう》と淡黄色《たんこうしよく》を帯びた毒瓦斯が、霧のように渦を巻いて、路上一杯に匍《は》ってゆく。死屍累々《ししるいるい》、酸鼻《さんび》を極《きわ》めた街頭が、ボッと赤く照しだされた。市民の鮮血《せんけつ》に濡れた、アスファルト路面に、燃えあがる焔が、ギラギラと映った。横丁《よこちょう》から、バタバタと駈け出した一隊があった。彼等は、いずれも、防毒マスクを、頭の上から、スッポリ被《かぶ》っていた。隊長らしいのが、高く手をあげると、煙りの中に突進していった。後の者も、遅れずに、隊長のあとを追った。それは任務に忠実な、生き残りの青年団員でもあろうか。
近くに、サイレンの響がした。毒瓦斯の間からヒョックリ顔を出したのは、真赤な消防自動車だった。だが、車上には、運転手の外に、たった二人の消防手しか、残っていなかった
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