いときましたから、大急ぎで、消毒剤を填《つ》めて、皆に附けてあげて下さい」
「弦三、お前まだどっかへ行くのかい」
 母親が尋ねた。
「僕は直ぐ出懸けます」
「この最中に、どこにゆくんだ」長造が問いかえした。
「淀橋《よどばし》の、兄さんのところへ、マスクを持ってゆくんです」
「なに、黄一郎のところへか」
「ほら、御覧なさい。この大きい二つが、兄さんと姉さんとの分。この小さいのが、三《み》ツ坊《ぼう》の分」
「なるほど、三ツ坊にも、マスクが、いるんだったな」
「よく気がついたね」母親が、長男一家のことを思って、涙を拭いた。
「それにしても今頃、危険じゃないか。いつ爆弾にやられるか、しれやしない。あっちでも、相当の用意はしてるだろうから、見合わしたら、どうだ」
「いえ、いえ、お父さん」弦三は、首を振った。
「僕は、もっと早く作って、届けたかったのです。だが、お金もなかったし、僕の腕も進んでいなかった……」
 長造は、弦三のことを、色気《いろけ》づいた道楽者《どうらくもの》と罵《ののし》ったことを思い出して、暗闇の中に、冷汗《ひやあせ》をかいた。
「それが、今夜になって、やっと出来上ったのです」弦三は嬉しそうに呟《つぶや》いた。「僕は、東京市民の防毒設備に、サッパリ安心が出来ないのです。行かせて下さい。いつも僕のこと想っていてくれる兄さんに、一刻《いっこく》も早く、この手製のマスクを、あげたいんです」
 感激の嗚咽《むせび》が、静かに時間の軸の上を走っていった。
「よォし。行って来い」長造がキッパリ云った。「いや、兄さん達のために、行ってやれ。だが、気をつけてナ……」
 あとには言葉が無かったのだった。
「じゃ、行ってまいります」
 これが、弦三と一家との永遠の別れとなったことは、後になって、思い合わされることだった。
「弦――」
 母親のお妻が、我児を呼んだときには、弦三の姿は、戸外《そと》の闇の中に消えていた。
 非常管制の警報は、いつしか熄《や》んでいた。
 外は咫尺《しせき》を弁《べん》じないほど闇黒《まっくら》だった。
 弦三は、背中に、兄に贈るべきマスクを入れた包みを、斜に背負い、自分のマスクは、腰に吊し、歩きづらい道を、どうかして早くすすみたいと気を焦《あせ》った。
 市内電車は、路面に停車し、車内の電灯は真暗に消されていた。これは、架空線《かくうせん》とポ
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