スルスルと、蟹《かに》の横匍《よこば》いのように壁際《かべぎわ》を滑《すべ》っていった。そして軈て中佐がピタリと止ったのは、「司令官室」と黒い札の上に白エナメルで書かれた室だった。
奇怪な湯河原中佐は、扉《ドア》の鍵穴に、なにものかを挿し入れてガチャガチャやっていたが、やっと扉が開いた。
ものの五分と時間は懸らなかった。司令官室で何をやったのであるかは判らぬけれど、再び中佐が姿をあらわしたときには、非常な決心をしているらしく、顔面神経《がんめんしんけい》がピクピク動いているのが、廊下灯《ろうかとう》によって写し出されたほどであった。このとき、中佐の両手は、ポケットのうちにあった。
彼は再び、元来た路を、とってかえすと、司令部広間の扉《ドア》の前を素早く通り、それから後はドンドン駈け出して行った。
中佐の身長が、その先の階段に跳ねあがった。十段ばかり上ると、そこに巌丈《がんじょう》な鉄扉《てっぴ》があって、その上に赤ペンキで、重大らしい符牒《ふちょう》が無雑作《むぞうさ》に書かれてあった。中佐はそれには眼も呉れず、扉のあちらこちらを、押えたり、グルグル指を廻したりしているうちに、サッとその重い鉄扉を開くと、ちょっと後を振返り、誰も見てないのを確《たしか》めた上で、ヒラリと扉《ドア》の中に姿を消してしまったのだった。
「……」
誰もいないと思った階段の下から、ヌッと坊主頭《ぼうずあたま》が出た。しばらくすると、全身を現した。襟章《えりしょう》は蝦茶《えびちゃ》の、通信員である一等兵の服装だった。彼は中佐の姿の消えた扉の前に、躍り出ると、手袋をはいたまま、力を籠めて把手《とって》をひっぱってみたが、扉はゴトリとも動かなかった。
そこで彼はニヤニヤと笑うと、扉の前を淡白《たんぱく》に離れ、廊下の上をコトコトと駈け出していった。そして何処かに、姿は見えなくなった。
丁度《ちょうど》そのころ、大東京ははしか[#「はしか」に傍点]にでも罹《かか》ったように、あちらでも、こちらでも、騒然としていた。号外の鈴は、喧《やかま》しく、街の辻々に鳴りひびいていた。夜になった許《ばか》りの帝都の路面が、莫迦《ばか》に暗いのは、警戒管制で、不用な灯火《あかり》が消され、そしてその時間が続いているせいだった。
警戒員の外には、往来を歩いている者も、無いようであった。誰もが、それぞ
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