人々は、ビール樽の死体を遠巻きにして、ワッワッと、騒いでいた。
「男爵が、居ないぞ」
「真弓も、どこかへ行った」
 その騒ぎの中に、チリチリと、電話が懸かって来た。
「それどころじゃございません」支配人が泣《な》かんばかりの声を出して、電話口へ訴えていた。「ビール樽が、殺されちまったんです。ええ、男爵とは、違います。ビール樽の野郎ですよ。どうか直ぐ来て下さい。私は、大将の命令がなけりゃ、店を畳《たた》みたいのですよ。どうかして下さいな、『狼《ウルフ》』の親分!」
 その頃、男爵とウェイトレス真弓とは、御成街道《おなりかいどう》を自動車で走っていた。二人は、こんな会話をしていた。
「では、狼《ウルフ》の大将は、今朝がた、イーグルへやって来たというのだな」
「そうですわ。そこへ、紅子《べにこ》さんという、浅草の不良モガが、一人でやって来たのよ。狼《ウルフ》は、紅子さんと、手を取って、帰って行きましたわよ」
「紅子が、ねえ――」
「ビール樽は、そのころから、お店の周囲をうろついてたんだわ。あいつ、百円紙幣に釣られて、あんたの身代《みがわ》りになったのね」
「では、真弓。これから、故郷《くに》へ帰ったら、二三年は、東京へ顔を出しちゃ、危いぞ」
「もう、お降りになるの。いまお別れしたら、何時《いつ》お目に懸かれるか、判らないわネ」
「お互《たがい》に、どうなるか、判らない人生だ。帰ったら、お父さんや、子供を、大事にしろ」
「これでも、あたし、古い型《かた》の女よ。帰ったら、いいママになりますわ」
「それがいい」男爵は、運転手の方へ向いて停車を命じた。
「では、所長」と運転手は、降り立った男爵に声をかけた。「たしかに、御婦人を、茨城県《いばらぎけん》[#ルビの「いばらぎけん」はママ]磯崎《いそざき》まで、送りとどけて参ります」
「どうか、頼んだぞ」
「それじゃ、サヨナラ。あたしの、男爵さま――では無かった、帆村荘六《ほむらそうろく》様」
「御健在《ごけんざい》に――」
 青年は、小さくなってゆく、自動車の方に手を振った。「男爵」というのは、無論、綽名《あだな》であって、G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の日本派遣隊の集合所と睨《にら》まれるキャバレ・イーグルに於ける不良仲間《ふりょうなかま》としての呼び名だった。そこで、彼は巧みに、狼《ウルフ》を隊長とする彼《か》の一団に近
前へ 次へ
全112ページ中72ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング