》った防空演習を、唯の一度もやっていなかったということは、何という遺憾、何という恥辱《ちじょく》だったでしょう」
「貴君《きくん》の云うとおりだ。もしも、帝都として防空演習を充分にやって置いたら、昨夜《ゆうべ》のような空襲をうけても、あれほどの大事にはならなかったろう。火災も、もっと少かったろう。徒《いたずら》に、圧《お》し合《あ》いへし合い、郊外へ逃げ出すこともなかったろうから、人命《じんめい》の犠牲も、ずっと少かったろう。流言蜚語《りゅうげんひご》に迷わされて浅間《あさま》しい行動をする人も、真逆《まさか》、あれほど多くはなかったろう」
 湯河原中佐と、塩原参謀は、偵察機上から、思わず悲憤《ひふん》の泪《なみだ》を流したことだった。
「浅草《あさくさ》の上空です」浅川曹長が、伝声管から注意した。
「うん、浅川曹長。お前の家は、浅草にあると云ったな」中佐が、不図《ふと》気がついて云った。
「そうであります」曹長の声は、すこし慄《ふる》えを帯びていた。「雷門《かみなりもん》附近の、花川戸《はなかわど》というところであります」
「どうだ、お前の家の辺《あたり》は、見えるかね」
 中佐は、胸にかけていたプリズム双眼鏡を外《はず》して、曹長の方へ、さし出した。
「はッ」曹長は、一礼してそれを受けとると、機上から上半身を乗りだして、遥かの下界を向いて双眼鏡のピントを合《あわ》せた。
「見えないか」
「判りましたッ」
「どうだ」
「焼土《やけつち》ばかりです。附近に、家らしいものは、一軒も見えません」
「戦争じゃからナ」中佐は、気の毒に耐えぬといった調子で、今から一と月程前までは、社会局の名事務員だった浅川岸一を慰《なぐさ》めたのだった。
「浅川は、司令部の御命令で、昨夜は、立川飛行聯隊の宿舎に閉じこめられ、切歯扼腕《せっしやくわん》していました。この上は、早く敵機に、めぐり逢いたいであります」
 小さいけれど、彼の懐しい裏長屋は、影すら見えなかった。そこには、用務員をしている父|亀之助《かめのすけ》と、年老いた祖母と、優しい母と、ダンサーをしている直ぐ下の妹|舟子《ふなこ》と、次の妹の笛子《ふえこ》と、中学生の弟|波二《なみじ》とが、居た筈だった。彼等は、憎むべき敵機の爆弾に、蹴散らされてしまったのだった。今頃は、どこにどうしていることやら。生か、それとも死か。彼は、折角《
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