「オイ皆、早く消しにゆけ。防火班、全速力だッ!」
 手近にいた者が駈けだそうとすると、その前に、またつづけさまに三発、ドドドーンと白煙が天に沖《ちゅう》する。
「うわーッ、やられたッ……」
 と鍛冶屋の大将が叫んだと思うと、どうと倒れた。
「おお、担架《たんか》、担架」
「イヤ何、大したことはない」
 大将はムクムクと起き上ってきて手を高くあげた。
「砂だ、砂だ。オイお前は、ホースを引っぱれ。早く早く。落ちついて急げ!」
 防護団はあまりの強襲にあって、頭がカーッとして、何がなんだかわからない。
 手あたり次第、眼にとまった方に駈けだしてゆく。これではいけない。もっと落ちつかねば……と気がついた旗男は、ふと天幕《テント》の中に、赤い房のついたラッパを見つけた。
「そうだ、これだッ」
 旗男は天幕の中にとびこんで、ラッパをつかむより早く、口に当てて、タタタァ……と吹鳴らし始めた。それは勇ましい戦闘ラッパだった。
 タッタ タッタ タッタ タッタ タッタ タッタ
「おお、戦闘ラッパが鳴っている!」
「おお、あれは誰が吹いているのだろう」
 嚠喨《りゅうりょう》たるラッパの音を聞いた人々は、にわかに元気をとりもどし始めた。
「おお、旗男君。さすがに、やるなァ!」
 と鍛冶屋の大将は頭をふった。そして腹の底から声をふりしぼって叫んだ。
「そォらッ! 今あわてちゃいかん。がんばれがんばれ。あと十分間の我慢だ!」
 火災は幸《さいわ》いにして、日頃の訓練が物をいって大事に至らずにすんだ。
「……瓦斯《ガス》だッ、瓦斯、瓦斯!」
 坂上から、伝令の少年が自転車に乗って駈けくだってきた。
「ホスゲンだ、ホスゲンだ。……防毒面を忘れるな」
「毒瓦斯が流れだしたぞう……」
 恐怖の的の毒瓦斯弾が、落ちたらしい。それっというので、防護団の諸員はお揃《そろい》の防毒面をかぶった。警報班員は一人一人、石油缶を肩からつって、ガンガン叩いて駈けだす。
「瓦斯は坂の上の方から下りてくるぞ。防毒面のない人はグルッとまわって風上へ避けろ。なるべく高い所がいいぞ。そこを、右へ曲って池田山《いけだやま》へ避難するんだ!」
 旗男は後に踏みとどまって、坂上から徐々に押しよせてくる淡緑色の瓦斯を睨みながら、さかんに手をふった。彼は、勇敢にも時々防毒面と頭との間に指ですき間をつくり、瓦斯の臭《におい》をかぎわけようとつとめた。


   地上の地獄


 ウウウーと、物凄い唸声《うなりごえ》をあげて、真赤な消防自動車が、砲弾のように坂を駈け上っていった。麻布《あざぶ》の方に、烈々たる火の手が見える。防毒面をつけた運転手は、防毒面の下で半泣《はんなき》になっていた。それは爆弾がこわいわけではなかった。早く火元へ駈けつけたくても、あわて騒ぐ市民がウロウロ道に出てくるので、あぶなくて思うように運転が出来ないからだった。あッ、また向こうの横町から洋装の女がとびだしてきた。
「あぶない!」
 運転手はわめいた。サイレンは、さらに猛烈に咆《ほ》えたって、女の前をすれすれに駈けぬけた。
 燃えやすい帝都に、一箇所でも火災をだすことは、この際一番おそろしい。ぜひとも早く消しとめなければならないと、消防隊は一生懸命なのだった。
 火事はお邸町《やしきまち》だった。
 消防隊員はバラバラととびおりて、直ちにホースを伸ばしていった。物凄い火勢だ。どうして焼夷弾を消さなかったんだろう。
「……実にけしからん」
 と小頭《こがしら》が頭をふって怒りだした。
「この辺の邸は、どこも逃げてしまって、なかには犬っころがいるだけだ。実にけしからん。だから焼夷弾が落ちても、誰も消手《けして》がないのだ。非国民もはなはだしい!」
 消防隊員を憤慨させたこの辺一帯の避難民はどうなったであろうか。彼等は甲州の山奥に逃げこむつもりで、新宿駅に駈けつけたが、たちまち駅の前で立往生をしてしまった。あまりに夥《おびただ》しい避難民が押しよせたので、もう身動きもできなかった。駅員の制止も聞かばこそ、改札口をやぶり、なだれをうって一部はプラットホームに駈けあがり、そこに停車していた列車にわれがちに乗りこんだが、そこでも百人近い死傷者が出た。
 列車の中にはいれない人は、窓の外にぶら下り、屋根の上によじのぼった。
 それは地獄絵巻のように、醜くも恐ろしい光景だった。……そんなに努力して乗りこんだのはいいが、列車は遂に発車しなかった。防衛司令部が警備の目的のため、列車の出発を中止させたのだ。
 ところが、悪いときには悪いことが重なるもので、そのうちに、こちらへ廻って来た敵機が、おびただしい爆弾と、焼夷弾とを投げおとして、新宿駅のまわりは、たちまち火の海となってしまった。
 消防隊も、防護団も、ぎっしりの群衆に邪魔されて手の下し
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