からドッと爆笑がまきおこって、その場の暗い気持をふきとばしてしまった。――旗男は、すっぱだかなのをすっかり忘れていた。
智者《ちしゃ》は惑わず
夜に入ると、直江津のコレラ菌さわぎは、ますますはげしくなっていった。
新潟放送局では、講演放送を途中で切り、警察署からの臨時官庁ニュースとして、「コレラ菌の入った井戸水を注意して下さい」を放送しだしたから、ラジオを聞いていたものは驚いた。
「……当分生水はお飲みにならぬようにねがいます。さしあたり、井戸の中へ漂白粉《さらしこ》を一キログラムほどお入れ下さい。……それから既《すで》に生水をお飲みになった方は、急いで医師の診察をうけられるか、それともすぐ梅酢《うめず》をちょこ[#「ちょこ」に傍点]に二、三杯ずつ飲んで下さい……」
コレラになっては大変だ。漬物屋へ徳利《とくり》をもって梅酢を買いに走ってゆく男や女。青年団は、倉庫を開いて、漂白粉をバケツに詰めては、エッサエッサと夜の町の井戸を探しにゆく。漂白粉をなげこんだ井戸には、白墨で三角印をつけてゆく。……放送を聞いたとたんに腹が痛くなったという者もでてきたが、本当の発病は二十四時間ぐらいにでてくるものが多いから、それは気のせいであろう。
とにかく旗男が気をきかしたので、コレラ菌がまかれたことはわりあい早く直江津の町に知れわたった。ぐずぐずしていると大変なことになるところだった。
「義兄《にい》さん。あの西瓜はもう駄目ですね」
と旗男は残念そうにいった。
「ああ、西瓜! そうだ、あの騒《さわぎ》で忘れていた。オイ西瓜を持ってこォい」
と、奥へ声をかけた。
「まあ、あなた、コレラ騒に西瓜でございますか」
露子はあきれたというような顔をして、国彦中尉の顔をみつめた。
「なァに、あの西瓜は大丈夫だよ。コレラ菌を入れる前に、上へあげたんだもの。それでも心配だったら、漂白粉を入れた水で、外をよく洗ってもっておいで」
「まあ、あなた、……そんなに食意地《くいいじ》をおはりになるものではありませんわ」
「ばかをいっちゃあいかん。意味なく恐れるのは卑怯者《ひきょうもの》か馬鹿者だ。十分注意をはらって、これなら大丈夫だと自信がついたら、おそれないことだ。僕は自信があるから西瓜を食べる。……旗男君、君はどうするかね」
中尉は笑いながら旗男の顔をみた。たしかに義兄のいうことは本当だ。
「智者は惑わず、勇者は恐れず」という格言がある。意味なくあわてるのでは、大和魂《やまとだましい》を持っているとはいえない。旗男のはらはきまった。
「僕、食べますッ!」
「姉さんは頂かないわ」
「ウフン、気の毒なことじゃ。ハッハッハッ」
二人の前に、俎《まないた》にのった西瓜が出て来た。国彦中尉は庖丁《ほうちょう》をとりあげると、グラグラ沸《わ》きたっている鉄びんの蓋《ふた》をとって中に入れ、やがてそれを出すと、ヤッと西瓜を真二つに切った。それをまた三つに切ってその一つを両手にもってガブリとかみついた。
「ああ、うまいうまい。旗男君、どうだ」
旗男は義兄の自信に感心しながら、西瓜の片《きれ》をとりあげた。そいつはすてきにうまくて、文字どおり頬《ほ》っぺたが落ちるようだった。
「義兄さん。あのコレラ菌を持っていたのはやはりスパイでしょうか」
「ウン、立派なスパイだ。日本にまぎれこんで、秘密をさぐっては本国へ知らせるスパイもあれば、あんなふうに、日本に対してじかに危害を加えるスパイもある」
「いまのスパイはS国人ですか」
「いや違う。東洋人だったよ。日本人か、他の国の人間か、いまに警察と憲兵隊との協力でわかるだろう。とにかくS国人に使われているやつさ」
「日本人だったら、僕は憤慨《ふんがい》するなあ。しかしS国というのは悪魔のようなことを平気でやる国ですね」
「これまでの戦争は、本国から遠く離れた戦場で、軍隊同士が戦うだけでよかった。しかしこれからの戦争は、軍隊も人民も、ともに戦闘員だ。そして戦場は、遠く離れた大陸や太平洋上だけにあるのではなく、君たちが住んでいる町も村も同じように戦場なんだ。だからあんなふうにスパイが細菌を撒いたり、それから又敵の飛行機が内地深く空襲してきたりする」
「すると僕も戦闘員なんですね」
「そうだとも。立派な戦闘員だ。非戦闘員はというと重い病人と、物心のつかない幼児《こども》と、足腰も立たないし、耳も、眼も駄目だという老人だけだ。七つの子供だって、サイレンの音がききわけられるなら、防護団の警報班を助けて『空襲空襲』と知らせる力がある。大戦争になると、在郷軍人も、ほとんど皆、出征してしまう。後にのこった人たちの任務は多いのだ。たとえば防空|監視哨《かんししょう》といって、敵の飛行機が飛んでくるのを発見して、それを早く防空監視隊
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