たします長野市附近の如《ごと》きは、窒素性のホスゲン瓦斯を落されたということでありました。そういうわけで、この列車も、毒瓦斯が車内に入ってくるのを防ぎますため、車窓も換気窓も、それから出入口の扉も絶対にお開けにならぬように願います。もちろん鎧戸《よろいど》の外には硝子戸《ガラスど》を閉めていただきます。それから扉の隙間などには、眼張《めばり》をしていただきます。眼張の材料が十分でございませんので、一つ皆さんで御相談の上、適当にやっていただきます」
これを聞いて、乗客たちは又色を失った。いよいよたいへんなことになった。この列車は毒瓦斯の中を通ることになったのだ。
「車掌さん、防毒面は貸してくれないのですか」
学生団から不安にみちた声がした。
「どうも配給がありませんので……」
「オイ車掌君。金はいくらでも出す。至急、防毒面を買ってくれたまえ」
一人の紳士があたり憚《はばか》らない声をだした。
「お気の毒さまで……。室全体の防毒で、御辛抱ねがいます」
「じゃ君に百円あげる。拝《おが》むから、ぜひ一つ手に入れてくれたまえ」
紳士は泣きだしそうな顔で紙入《かみいれ》をだした。
「お断りします」
車掌はキッパリいって、次の車室へドンドン歩いていった。
「おお、そこの子供くん。君は可愛《かわい》い子だ」
と、紳士は旗男のところへヨロヨロと近づいた。
「二百円あげるから、その防毒面を売ってくれたまえ。私は肺が悪い、病人だ。ね、売ってくれるだろう。三百円でもいい」
旗男は困ってしまった。すると隣に腰をかけていた鍛冶屋の大将が、旗男をかばうようにしたかと思うと、食いつきそうな顔で紳士をにらみつけた。
「この馬鹿野郎!」
その破鐘《われがね》のような声に吹きとばされたか、がりがり亡者の紳士は腰掛の間に尻餅《しりもち》をついた。
それに構わず、鍛冶屋さんはすっと立ちあがった。
「さあ皆さん。毒瓦斯を防ぐとなると、お互さまに知らぬ顔をしていられません。みんなで力を合わせて、この室を早く瓦斯避難室にしなければなりません。私は東京品川区の五反田《ごたんだ》では防護団の班長をしています。後備軍曹で、職業は鍛冶屋です……」
飛んだところまで口をすべらせるので、辻村氏があきれて、下から鍛冶屋の大将の服をひっぱった。
「……で、とにかく私が指揮しますが、文句はありませんか」
「委《
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