空気男
海野十三
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)清家《せいけ》博士
−−
青い器械
「これでいい。もう今日から、わが家の門を堂々とくぐれるんだ」
清家《せいけ》博士は、大きな鞄を重そうにさげ、いつもとは違い意気揚々と玄関へ入ってきた。
「誰? 御用聞きなら裏口へお廻り」
と、奥から例によって家附娘《いえつきむすめ》のマス子夫人のヒステリックな罵声《ののしりごえ》が聞えた。
博士はいつもの習慣でビクッと、首を縮めたが、とたんに気がついて、ドンドン床を踏みならしながら、自分の部屋に入って、ピチンと錠を下ろした。
重い鞄を実験台の上で開いて、中から取出したのは小型のラジオのような青色の器械だった。
それには二本の長い線がついていて、端にはクリップがついていた。
その一つで頭髪を、他の一つで靴の先を挟《はさ》んで置いて、青色の器械のスイッチを押すと、ジジジーッという音がした。
とたんに表戸を激しく打ち叩く妻君の声。
「コラッ丘一《おかいち》。なぜ扉《ドア》に鍵をかけたッ、早く明けないと……昨日のお処刑《しおき》を忘れたのかネ、お前さんは。よオし、もう妾《わたし》ゃ堪忍袋の緒が切れた。鍵ぐらいなアんだッ」
ドーンという荒々しい物音。
妻君は太った身体をドシンドシンと扉《ドア》にぶつける。錠前がこわれて、扉はポーンと明いた。
「チキショー、お前さん。……」
と、勢いよく飛びこんでみたが、なんたる不思議、そこに居ると思った亭主清家博士の姿が見えない。
博士夫人
「おンや、お前さん、どこへ隠れたのさあ」
ファッショの妻君は、室内に入ると、清家博士の姿が見えないので、愕きかつ憤慨の態《てい》である。――しかし室内には、蠅一匹見えやしない。
「窓から飛び出したようにも見えないんだけれど……」
妻君は窓のそばによって、硝子《ガラス》戸を上にあげた。
「ハ、ハッショイ。――」と、そのとき突然大きな嚏《くさめ》の音がした。
「おやおやおや、誰が噂をしたのだろう。妾《わた》しはたしか嚏をしないのに、外に誰がしたというのだろう。はてナ……」
妻君の眼がギラギラ光り出した。
そのときであった。妻君の頭髪を上の方へギューッと引張りあげたものがある。
「うわーッ、あいたあいたあいた。で、誰れ?」
すると上の方で、猫が風邪をひいたようなしゃがれ声がした。
「コラ、女よ。わしは猫の神じゃ。お前の亭主は不都合なのじゃから、わしが連れてゆくぞや。オイ、窓のところを見ろ」
妻君が、ハッと窓の方を見たときだった。風もないのに硝子戸がガチャーンと割れて、あとに大きな穴がポカリと明いた。キャーッ。
夕立雲
妻君は夫博士が猫の神にとうとう空気に変えられてゆかれてしまったものだと思いこみ、非常に恐怖にとらえられた。
発明の古い器械で身体の見えなくなった博士は外に出て、洋服についている硝子の粉を払《はら》いながら、さてこれからどうしたものだろうと考えた。
「ウン、屋根の上で日向《ひなた》ぼっこでもしながら、これから先のことを考えよう」
彼は屋根へのぼって、暖い瓦の上にゴロリと横になった。
いよいよ考えようと思っているうちに、博士は日頃の疲れで、早くもグッスリ睡《ねむ》ってしまった。
そのうちに夕立雲が出てきて、ザアザアと雨が降りだした。ズブ濡れになったところで博士はやっと目を覚した。
雨が降っては、外が歩けないから、清家博士は靴をブラ下げたまま、屋根伝いに物干台から家の中に入った。
階段を下りてゆこうとすると、下から妻君が現れた。彼は習慣でハッと思った。でもすぐ気がついて妻君には彼の姿が見えないんだから、恐れるところはないと思って、悠々階段を下っていった。
すると妻君がいきなり目を見開いていった。
「――ああ貴郎《あなた》ア、こんなところにいたんだネ。ウーム、この虫けら奴」
捕虜
清家博士は妻君のために雁字《がんじ》がらめに縛りあげられ、ベッドの金具に結びつけられた。もう逃げることはできなかった。
「なぜ俺の姿が見えるようになったんだろう。さっきあの発明器械を使ったときは、たしかに身体が見えなくなったのに」不思議不思議と考えているうちに、博士はやっとその理由を了解した。それは屋根で昼寝をしているとき雨にうたれたが、雨で全身濡れたため身体につけて置いた消身電気《しょうしんでんき》が濡れた服を伝わって逃げてしまったのにちがいない。身体を濡らすことはよくないことだと始めて悟ることができた。夜に入って、妻君がベッドの上に乗ったとき、博士はさも悲しそうな声を出して、戒《いまし》めの綱を解いてくれるように哀願した。
「ほんのすこしだけですよ」
妻君は彼をベッドの上に引張り上げてやった。博士は間もなく、急にゴホンゴホンと咳をしだした。持病《じびょう》のぜんそくが起ったのである。
「は、早く早く。あの戸棚の一番下の引出しの奥の方に薬があるから、と、とって呉れ。ああウウ」
最後の手
清家博士がベッドの上で発作を起したので、愕いた妻君は博士の云うとおりに、戸棚の一番下の引出しを明けて、奥の方を探してみた。なるほど白い薬の包みがある。
「これですか、あなたア」
「おお、それだ。早く早く。ゴホンゴホン」
妻君が薬の包みを渡すと、博士は枕元《まくらもと》のコップに水をなみなみと注《つ》いで、
「さらば、愛するオクサンよ!」
と云うなり、薬を口中に抛《ほう》りこもうとした。ぜんそくの薬と思わせたのは、実は消身薬の包みであった。
「あなた、待って――」妻君は愕いて清家博士の手を押さえた。
「あなたが死ぬなら、妾《わたし》も一緒に死にますわ」
妻君は博士が自殺するものと早合点したので、そういうが早いか妻君は戸棚の引出しのところへ駈けつけるなり、自分も一袋をとって口の中に抛りこんだ。
かくて二人の姿は、この寝室から消え失せた。どこからか博士の舌打ちの音が聞える。
消身剤
粉末の消身剤をのんだ清家博士は、トタンに大後悔した。まさか妻君が、それを同時にのむとは考えていなかったのである。
粉末の消身剤は、例の電気的に消身する青い器械とは効力がちがっていた。粉末の方は、ずっと前に発明したもので、効き目は青い器械よりは強い代りに欠点があった。
それは、飲めば身体が空気と同じようにフワフワになってしまうことだった。青い器械の方ならば、姿こそ見えね、身体はそのままでいられる。
粉末の方はフワフワになった上、二十四時間経たねば元のとおりに帰れない。
しかも一人がフワフワになると、空気のように両方が交《ま》ざってしまう虞《おそ》れがある。もし交ざってしまえば、二十四時間後にはどんな変ちきりんな身体になるか分ったものではない。一つの身体に頭が二つ生え、手が三本に、足が二本になるかもしれない。
「チェッこれはどうなるのだ!」
清家博士は、あまりの恐怖に気が遠くなりそうだった。
フワフワになった筈の妻君は、今この部屋の何処で何をしていることやら。
ボール
「おお神様、あなたの哀れな下僕《げぼく》に恵《めぐ》みをお垂《た》れ下さいまし」
さすがの清家博士も、もはや科学にたよることができなくなって、神に祈った。どうかして、このベッドルームの空間にフワついている気体化した自分の身体が同じ気体化した妻君の身体と交ざってしまわぬことを念じたのであった。果して神様はこの新入の下僕に恵みを垂れたまうや否や? そのときであった。
窓ぢかくにおいて突然ドエライ音響がした。板で叩きのめすような衝動が清家博士の身体を襲った。
「ナ、なんだろう?」
「キャーッ」という声は、どうやら妻君の声らしい。彼女は戸棚の上あたりにフワついているらしい。と思う間もなく、つづいてなにかドンと鈍《にぶ》い音がして窓と向き合った扉《ドア》にぶつかったものがある。そいつが転げ落ち床をコロコロと動くのを見れば、それはスポンジボールであった。それで音響の原因が分った。
迎いの風
清家博士夫妻は、寝室のなかで、別々に空気のように透明となり、空気のようにフワフワ宙に浮いているところへ、そのスポンジボールが飛んできて硝子窓をわったのである。
「ちぇッ。また向いのイタズラ小僧がホームランを出しやがったな。硝子に穴があいちゃ、うっかりするとそっちへ吸いよせられるぞ」
博士はそれを考えゾッとした。
すると廊下をドンドンと歩いてくる足音が聞えてきた。お手伝いさんのメアリーだ。
彼女の足音は、部屋の前でパタリと停った。ガチャガチャと鍵を入れる音がする。やがて入口の扉《ドア》がスーッと明いた。そしてメアリーの怪訝《けげん》な顔が現れた。
とたんにサッと廊下から吹き込む一陣の風! 呀《あ》ッと思う間もなく、博士の身体は名犬の輪ぬけのように、硝子窓の破れ穴からスーッと外に抜けいでてしまった。
街路
瓦斯《ガス》体となった清家博士は、街路樹の葉から葉へともつれながら、警戒をつづけていた。
このあたりにフワついているところのこれも瓦斯体となった博士夫人の身体と混合することを、極度に恐れていた。もし、万一そんなことになると、彼は再びもとの身体にはかえれないであろう。
この心配の折から、向うの通りからガランガランとやかましくベルをならしながら、撒水自動車がやってきた。
それは最新式のもので、大きな水槽《みずおけ》の下から横むきに水を猛然と噴きだす式のものであった。
博士は街が涼しくなることを悦んでいた。撒水自動車が近づくと気流がはげしく起った。
博士はハッと身を縮めたが、撒水のはげしい勢いのために、ふきとばされそうになった。
「これはいけない」
と思っているうちに、ものすごい突風がやってきて梢《こずえ》にしがみついている博士の身体を軽々とふきとばした。
瓦斯体《ガスたい》に化した清家博士の身体は、つぎつぎに起る突風のため、だんだん博士邸より遠くへ飛ばされてゆくのであった。
「弱ったなあ、これじゃ実験室へいつになったら帰れることやら――」
博士の心細さは、だんだんつのってくる。
突風は、さらに博士の身体をあおった。博士の身体は、弾力を失ったゴムのように、しだいしだいに細長くのびてゆくのであった。
博士はそれに気がついたとき、実に愕《おどろ》いた。それというのも、博士の頭が、煙突にコツンとあたって、あっ痛《いた》と思わず身体を縮《ちじ》めたとき、博士の足は、その煙突から一丁も放れた或る喫茶店の窓にひっかかって、靴がポロリと脱《ぬ》げたのであったから。そのとき博士の身長は、もう一丁を越すほど長くのびてしまったのである。
「ありゃりゃ、これは始末にいかんぞ」
そういううちにも、博士の身体は、飴《あめ》のようにぐんぐん伸びていった。
一難さって、また一難である。この分ではやがて博士の身体は、一里にも二里にも伸びてしまうかもしれない。
そのとき思いがけないことが起った。
突然博士の身体は、強い風にあおられて、足首を電線にひっかけてしまった。
「失敗《しま》った」
と思ったとたん、またひとしきりの風がふきつけて、呀《あ》っと思う間もなく、電線は博士の足首を身体からプツリと切り放してしまった。さあ大変!
大団円
突風のため、見えざる流体化した清家博士の身体は、電線にふきつけられて、足首のところからちょん切られた。
「しまった。待て!」
と博士は夢中で手を伸ばしたが、もう遅かった。切れた足首は、どこへ吹きとんでしまったのか、行方が分からない。
そのうちに、またもや吹きくる強風!
「ああっ!」
といううちに、今度はビルディングの避雷針で博士の膝頭のところからぶつりと切れてしまった。
その先に、広告バルーンが揺いでいて、これに胴中を真二つにされた。飛行機のプロペラで、手首や腕が切られ、はては首までちょん切られてし
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング