古めかしい煉瓦建《れんがだて》ではあるが、ひじょうにりっぱな研究室や標本室、図書室、実験室、手術室などがひとかたまりになった別棟《べつむね》の建物があったのである。当主《とうしゅ》である彼、左馬太青年がそこを仕事場にえらんだことは、しごく自然であった。
 不幸なことに――他人が見たら――かれは、もっか身よりもなく、ただひとりであった。両親と弟妹《ていまい》の四人は、戦争中に疎開先《そかいさき》で戦災《せんさい》にあって死に、東京で大学院学生兼助手をして残っていた、かれ左馬太だけが生き残っているのである。そういう気の毒なさびしい身の上であったが、かれ自身はいっこう気にかけていないように見え、その広い邸宅に、四人の雇人《やといにん》とともに生活していた。
 博士論文が通過するまでの約一年間に、かれがまとめあげた研究論文は五つ六つあった。その中に、特にここでごひろう[#「ごひろう」に傍点]しておきたいのは「細胞内における分子配列と、生命誕生の可能性、ならびにその新確率論《しんかくりつろん》による算定《さんてい》について」というのであった。
 この論文といい、また博士論文に提出したあの論文といい、かれが研究の方向を、細胞の分子に置いていることが、これによってうかがわれる。こういう研究の領域《りょういき》は、わが国はもちろん、世界においても今までに手がつけられたことがなく、じつに研学《けんがく》の青年針目左馬太によってはじめて、メスを入れられたところのものであった。
 しかもかれは、すこぶる大胆にも「生命の誕生」という問題を取り上げているのだった。はたしてかれの論文が正しいかどうかは別の問題として、かれはつぎのようなことを結論している。
[#ここから2字下げ]
(――細胞内における分子が相互にケンシテイションをひき起こし、そのけっか仮歪《かわい》のポテンシャルを得たとすると、これは生命誕生の可能性を持ったことになる)云々。
[#ここで字下げ終わり]
 これが重大なる結論なのである。生命が誕生する可能性をもつ条件が、要約せられているのである。
 しかし、ケンシテイションとはどんな現象なのか、仮歪《かわい》のポテンシャルとはどんな性質のものか、それについてはこの論文を読んだ者はひじょうな難解《なんかい》におちいる。だが針目青年には、これがよくわかっていて、論文中いたるところにこれを駆使《くし》している。思うに、この二つの専門語を知るためには、これよりもまえに書いた、彼の他の論文を読破《どくは》しなければならないのであろう。
 それはともかく、かれの研究は生命誕生の可能性にまで達していると思われる。これはこれまでの生物学者も医学者も、まったくふれることのできなかった難問題である。それを二十歳を越えたばかりの白面《はくめん》の青年学徒が、みごとに手玉にとっているのであるから、なんといってよいか、じつに原子力行使《げんしりょくこうし》につぐ劃期的な文明開拓だといわなければならない。もっとも、世の多くの頑迷《がんめい》な学者たちは、にわかにこの青年学徒のしめすところの結論を信用しないであろうけれど……。そして読者諸君はこれからくりひろげられる物語の事実により、はたしてかれの研究が本ものか、それとも欠陥《けっかん》があるかを判定されればよいのである。
 さてここで、さきにかかげた博士の日記ふうの随筆にもどるが、その内容は、さほど奇抜《きばつ》すぎるというものではない。あそこに述べられたような感じは、われわれとても、ふだんふと心の中にいだくことがある。
 じつは、右の内容について、大いに気にしなければならぬことがあるのであるが、ここにはふれないでおく、それはいずれ先へ行ってから、いやでもむきになって掘りかえさなければならない時がくるのであるから。
 ただ、ここにはその文章の最後のところに書いてある一文について、読者の注意をうながしておきたいのだ。
 すなわち、こうである。
[#ここから2字下げ]
(一月十日、金属Qを創造《そうぞう》する見込《みこ》みのつきたる日しるす)
[#ここで字下げ終わり]
 とある。
 おかしいとは思われないか。これまでずっと細胞分子の問題や、それに関連しての生命誕生のことなどばかりを取りあげていた針目博士が、こんどは急にがらりと目先をかえて、金属の製造研究に没頭していることである。
 金属製造――と書いては、いけないかもしれない。博士は“金属Qを創造”としたためている。製造と創造とは、なるほどすこしく意味がちがう。しかし創造ということには製造することがふくまれているのだ。はじめて製造することが創造なのである。してみれば、ぞくっぽく金属製造といってもさしつかえないであろう。
 いや、金属というものは、精錬《せいれん》され、あるい
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