びは、ポチ以上であったことはいうまでもない。
ラツール記者は、結局十ドルだけ損をしたことになる。しかしそれは、十ドル支払った当《とう》ざのことであって、やがて彼はその十ドルが自分の生命を買った金であったことに気がつく日が来るはずである。たった十ドルで生命が買えるなんて、ラツール氏はなんといういい買物をしたことであろう。しかしこのことも、そのときラツール氏はまだ気がついていなかった。
大きな自然のふところにいだかれて、原始人《げんしじん》のような素朴《そぼく》な生活がつづいた。あるときは油を流したようをしずかな青い海の上を、モンパパ号は大いばりで進んでいった。またあるときは、ひくい暗雲《あんうん》の下に、帆柱のうえにまでとどく荒れ狂う怒濤《どとう》をかぶりながら、もみくちゃになってただようこともあった。
朝やけの美しい空に、自然児《しぜんじ》としてのほこりを感ずることもあったし、夕映えのけんらんたる色どりの空をあおいで、神の国をおもい、古今《ここん》を通じて流れるはるかな時間をわが短い生命にくらべて、涙することもあった。
航路は三日以後は熱帯《ねったい》に入り、それからのちはほとんど赤道にそうようにして、西へ西へと船脚をはやめていたのだ。
とつぜんおそろしい破局《はきょく》がやってきたのは、サンフランシスコ出港後第十三日目のことであった。たぶん明日あたり、ニューアイルランドの島影が見えはじめるはずだった。それが見えれば、本船は、その尖端《せんたん》のカビエンの町を左に見つつ南方へ針路をまげ、そして島ぞいにラボール港まで下っていくことになっていたのだ。
いや、カビエンもラボールの話も、今はむだである。わがモンパパ号は、カビエンもラボールも、どっちの町も見はしなかったのだ。それどころか、ニューアイルランドの島かげさえ、ついに見ることがなかったのだ。
おそろしい破局が、それよりも以前に来たのである。モンパパ号は、深夜《しんや》の海に一大音響をあげて爆沈《ばくちん》しさったのである。
そのときのことを、すこしぬきだして、次に記しおく。
愛犬《あいけん》の行方《ゆくえ》
玉太郎は、ふと目がさめた。
おそろしい夢にうなされていたのだ。自分のうめき声に気がついて、目ざめた。身は三等船室のベットの上に、パンツ一つの赤はだかで横になっていることを発見して、彼は安心したが、胸ははげしく動悸《どうき》をうっていた。
附近には、同じ三等船客が眠っていた。彼らは玉太郎のうめき声に気がついた者もあるはずだったが、誰も親切心を持っていなかったと見え、この少年を呼び起してやる者がなかった。もっとも玉太郎は、そういうことを、ちっとも気にしていなかったが……。
それよりも、目ざめた玉太郎がすぐ感じた不安があった。それはいつも自分のベットの下に寝ている愛犬ポチの気配がしなかったことだ。彼はむっくり起きあがると、ベットの下をのぞいた。
ポチはいなかった。
やっぱりそうだった。ふしぎなことだ。玉太郎が寝ている間は、ほとんどそばをはなれたことのないポチが、なぜ今夜にかぎつて無断《むだん》で出かけてしまったんだろう。
「ポチ……。ポチ……」
玉太郎は、あたりへえんりょしながら、犬の名を呼んだ。
「しいッ」「ちょッ。しいッ」
たちまち、他のベットからしかられてしまった。
玉太郎は、ベットの上に半身《はんしん》を起した。そのときだった。彼はポチのほえる声を、たしかに耳にしたと思った。しかしそれは、遠くの方で聞えた。どこであるか分らない。この船室でないことだけはたしかであった。
玉太郎は、いそいではね起きた。そしてすばやく上衣《うわぎ》とパンツをつけ、素足《すあし》でベットの靴をさぐって、はいた。
それから枕許《まくらもと》から携帯電灯《けいたいでんとう》と水兵ナイフをとって、ナイフは、その紐《ひも》を首にかけた。そして足ばやにこの部屋をでていった。
戸口のカーテンを分けて出ようとしたとき、またもやポチのほえるのを聞いた。どうやら二等船室の方らしい。いやなほえ方だ。強敵《きょうてき》におそわれ、身体がすくんでしまってもがいているような声だった。玉太郎は、一刻《いっこく》も早くポチを救ってやらねばならないと思い、せまい通路を走って、二等船室の方へとびこんでいった。犬の姿は、なかった。
と、船室の戸がひらいて、そこから顔を出した者があった。
ラツール記者だった。
「おや、玉太郎君かい。どうしたんだ」とむこうから声をかけた。
玉太郎は、そばへかけよると自分の寝台《しんだい》の下からポチが見えなくなって、どこやらで、いやなほえ方をしていることを手みじかに語った。
「ふーン、なるほど。僕もポチの声で目がさめたんだ。この戸口の外でへ
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