ある。尻尾《しっぽ》がいそがしそうにゆれている、がつがつたべているのだ。
「十分に腹をこしらえておいた方がいいよ。これから一荒《ひとあ》れ来るからねえ」ラツールが空を見上げた。玉太郎もそれについてあおむいた。
 さっきの黒雲は、いつの間にか、翼《つばさ》を大きくひろげていた。南西の方向は、雲と海面との境界線が見えない。すっかり黒くぬりつぶされている。すうーっと日がかげった。黒雲はもう頭の上まで来ているのだ。
 突風《とっぷう》が、帆をゆすぶった。帆柱《ほばしら》がぎいぎいと悲鳴をあげた。
 筏は急にゆれはじめた。波頭《はとう》がのこぎりの歯のようにたってきた。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ。大粒の雨が、玉太郎の頬をうった。と思うまもなく、車軸《しゃじく》を流すような豪雨《ごうう》となった。
 太い雨だ。滝つぼの下にいるようだ。あたりはまっくらに閉じこめられて、十メートル位から先の方はまったく見えなくなった。
 雨と浪《なみ》とが、上と下からかみあっているのだ。そこへ横合から風があばれこんでくる。ものすごいことになった。
 帆柱は、一たまりもなくへしおれた。帆は吹きとばされた。
 筏はばらばらになりそうだ。ラツールは玉太郎をはげましながら、筏の材料をむすびつけてある綱をしめなおし、なおその上に、あるものはみんな利用して筏の各部をしばりつけた。
 ポチは体が小さいので、いくたびか海の中へ吹きとばされそうになった。玉太郎はポチを、おれのこっった帆柱の根元に、綱でもってしばりつけた。大波が筏をのむたびに、ポチは波の下にかくれ、やがて潮《しお》がひくと、ポチは顔をだしてきゃんきゃんと泣いた。
 風雨は、だんだんひどくなった。
 山なす怒濤《どとう》は、筏をいくどとなくひっくりかえそうとした。あるときは奈落《ならく》の底につきおとされた。次のしゅん間には、高く波頭の上につきあげられた。
 刃物《はもの》のような風がぴゅうぴゅうと吹きつける。めりめりと音がしたと思ったら、筏の一部がかんたんにわれて、あっと思うまもなく荒浪《あらなみ》にもっていかれてしまった。
 もう誰も生きた心地がない。風と雨とにたたかれ怒濤にもてあそばれ、おまけに冬のような寒気がおとずれ、手足がきかなくなり、凍《こご》え死《じに》をしそうになった。
 天地はまっくらで、方角もわからなければ、太陽も地球もどこへ行ってしまったのかけんとうがつかない。ラツールと玉太郎とは、もう万事《ばんじ》あきらめ、たがいにしっかり抱きあい、ポチも二人のあいだへ入れて、最期《さいご》はいつ来るかと、それを待った。
 それから、かなりの時間がたった。
 もういけない、こんどの波で筏はばらばらになるだろう、この次は海のそこへつきおとされるであろうなどと気をつかっているうちに、両人ともすっかり疲労《ひろう》して、そのままぶったおれ、意識を失ってしまった。
 気がついたときは、風もしずまり、波もひくくなり、そして空は明るさを回復し、雲の間から薄日《うすび》がもれていた。
「おお、助かったらしい」一番先に気がついたのは玉太郎であった。すぐラツールをゆりおこした。
「ラツールさん。嵐はすみましたよ」
「ううーン」ラツールは目を開いた。そして玉太郎の顔をふしぎそうに眺めていたが、
「やあ、君か。きたない面の天使があればあるものだと感心していたら何のことだ、玉太郎君か。天国じゃなくて、ここはやっぱり筏の上なんだね」と、にこにこしながら半身をおこした。
 ポチもおきあがって、ぶるぶる身体についている水をふるったので、それが玉太郎の顔にまともにあたった。
「ポチ公。おぎょうぎが悪いぞ。ぺッ、ぺッ」
 玉太郎は顔をしかめた。ラツールは大きな声で笑った。玉太郎も笑った。生命を拾った喜びは大きい。


   恐《おそ》ろしい丘影《おかかげ》


 雲がどんどん流れさって、太陽が顔を出した。
 太陽の高さから考えると、嵐は五時間ぐらい続いたことになる。
「いったい、どこなんでしょう」玉太郎がきいた。
「さっぱり方角が分らない。太陽が、もうすこしどっちかへかたむいてくれると、見当がつくんだが、なにしろ太陽は今、頭のま上にかがやいているからね」
 赤道直下《せきどうちょっか》だから正午には太陽は頭のま上にあるのだ。筏の上に立つと影法師《かげぼうし》が見えない。よく探して見れば、影法師は足の下にあるのだ。
「どっちを見ても空と海ばかり……おや、島じゃないでしょうか[#「ないでしょうか」は底本では「ないでょうか」]、あれは……」
 玉太郎は、筏のまわりをぐるっと見まわしているうちに雲の下に、うす鼠色《ねずみいろ》の長いものが横たわっているのを見つけた。
「あれかい。あれは雲じゃないかなあ、僕もさっきから見ているんだが……」
「島ですよ。山
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