ろしでもあげましょうか」
「そうだ。しかし、僕には任務が残っている。我々が救われたいために、傷ついた友人をそのままにしておくことは出来ない」
ケンは厳粛《げんしゅく》に言いはなつと、今まで熱狂的《ねっきょうてき》にあおいでいた眼をふせて、岬のはずれをふたたび見守った。
「どれ、少し近づいてみよう」
オールがうごいた。玉太郎は舵棒《かじぼう》をとった。
爆音は次第に大きくなる。
「島の誰かが合図をするだろう、僕らは今の責務《せきむ》を完遂《かんすい》しようじゃないか」
ケンは波よりもしずかに云う。
朝日を受けたその顔には、神々しいばかりのかがやきが見られた。
あとがき
恐竜島の長い物語はここで一まず筆をはぶくことにする。
もう作者はこの後、くどくどと長い続きを書くひつようをみとめなくなったからだ。
しかし、愛読者諸君は、島に残された人々の運命を知りたいに違いない。そこで、これから後の物語を、作者は簡単に述べることにしよう。
ケンと玉太郎が発見した飛行機は、二十四人乗りの大型飛行艇だったのである。
実業家マルタン氏が、島への出発に先立って、十五日しても船が帰らなかったり、船から通信がいかなかったら救助に来るようにとひそかに依頼してあったのです。その航空会社がマルタンの依頼を忠実に守って救助にやって来てくれたのである。
海賊船は調査の結果は、やはり大海へ乗り出すには、あまり古すぎ、傷つきすぎていた。もし救助艇がやって来なければ、一同はこの船で帰国の途に着いた事であろう。しかし第二第三の困難や冒険が、その行手にひかえていて、無事に本国へもどれたかどうかは、わからなかったであろう。
モレロ、フランソア、ラルサンの三人は、気の毒ながら生きかえらなかった。だからキッドの宝の秘密を知っている者はいなくなってしまったわけである。
爆音におどろいた恐竜たちは、ラウダの必死の口笛でおさまった。帰国への出発は、探検船が出航するのとは大へんにちがって安全なものであった。
「もうふたたび訪れることはあるまい」
飛行艇が出発する時、南国の花で作られた花たばが、機上からなげられた。
島に建てられた四つの墓に捧《ささ》げられたのである。
今でも恐竜島は、四つの墓も恐竜に守られて、南国のみどりの波の間に浮いていることだろう。
ツルガ博士はパリーに帰ってから、「恐竜島における動植物の研究」という論文を書いて発表した。
ダビットのとった映画は、ニューヨークを皮切りに地球上の国々で長期興行の記録を作っていった。この功績のために、ケンとダビットは映画賞をもらったり、ワシントン大学の動物学教室から名誉博士《めいよはくし》の称号《しょうごう》をもらった。
ラツール記者は恐竜島の冒険物語を発表した。これは二十四国語に訳されて、広く愛読され今年度のベストセラーの内に入れられた。
さて、玉太郎はどうしたろう。豪州《ごうしゅう》見物はできなかったけれど、恐竜島という豪州にくらべて決して見おとりのしない島の見物が出来たので、結果においては大へんもうけたことになった。現在はラツール記者の世話で、ル・マルタン紙につとめている。
今でも玉太郎をラツールのアパートにたずねると、彼はポチをだいて、あの数々の冒険談を話してくれる。そして、恐竜島に負けぬ位の怪奇島《かいきとう》があったらぜひつれていってくれと腕をたたいている。
最後にツルガ博士の娘ネリのことをのべよう。彼女は中国人|張子馬《ちょうしば》氏の作った恐ろしい思い出の島という詩に、自分でピアノの曲をつけて発表した。それがパリー人にみとめられて、映画やバレーになって上演され、パリー中の人気を集めることになった。
ネリは今でも玉太郎と仲よしである。ラツールは二人のことを島が生んだ愛すべき友情といっている。
底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
底本の親本:「海野十三全集 第八巻」東光出版社
1951(昭和26)年6月25日
初出:「PTA世界少年」
1948(昭和23)年1月号〜終了月は未詳
※底本に見る「探検」と「探険」の混在は、ママとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月28日公開
2006年8月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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