別のわけがなければならなかった。課長がすこし弱り目を見せたところを見てとった記者団は、そこで課長の心臓をつくような質問の巨弾を放ったのだった。
「三年ほど前、大胆不敵な強盗殺人を連発して天下のお尋ね者となった兇賊《きょうぞく》痣蟹仙斎《あざがにせんさい》という男がありましたね。あの兇賊は当時国外へ逃げだしたので捕縛を免れたという話ですが、最近その痣蟹が内地へ帰ってきているというじゃありませんか。こんどの殺人事件の手口が、たいへん惨酷なところから考えてあの痣蟹仙斎が始めた仕業だろうという者がありますぜ。こいつはどうです」
「ふーむ、痣蟹仙斎か」課長は眉を顰《ひそ》めて呻《うな》った。「本庁でも、彼奴《あいつ》の帰国したことはチャンと知っている。こんどの事件に関係があるかどうか、そこまで言明の限りでないが、近いうち捕縛する手筈になっている」
と云ったが、大江山課長は十分痛いところをつかれたといった面持だった。痣蟹仙斎の、あの顔半分を蔽《おお》う蟹のような形の痣が目の前に浮んでくるようだった。
「それでは課長さん。これは新聞には書きませんが、痣蟹の在所《ありか》は目星がついているのですね」
「もう五分間は過ぎた」と課長はスックと椅子から立ちあがった。「今日はここまでに……」
課長が室を出てゆくと、記者連は大声をあげて露骨な意見の交換をはじめた。結局こんどの吸血事件と帰国した痣蟹仙斎のこととを結びつけて、本庁は空前の緊張を示しているが、実は痣蟹の手懸りなどが十分でなくて弱っているものらしいということになった。そしてこのことを今夜の夕刊にデカデカ書き立てることを申合せたのだった。
夕刊の鈴の音が喧《やかま》しく街頭に響くころ、大江山課長はにがりきっていた。
「しようがないなア。こう書きたてては、痣蟹のやつ、いよいよ警戒して、地下に潜っちまうだろう」
そこへ一人の刑事が入ってきた。
「課長さん。お手紙ですが……」
と茶色のハトロン紙で作った安っぽい封筒をさしだした。
課長は何気なくその封筒を開いて用箋をひろげたが、そこに書いてある簡単な文句を一読すると、異常な昂奮を見せて、たちまちサッと赭《あか》くなったかと思うと、直ぐ逆に蒼《あお》くなった。そこには次のような文句が認《したた》められてあった。
「大江山捜査課長殿
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啓《けい》。しばらくでしたネ。しばらく会わないうちに、貴下《きか》の眼力《がんりき》はすっかり曇ったようだ。日比谷公園の吸血屍体の犯人を痣蟹の仕業《しわざ》とみとめるなどとは何事だ。痣蟹は吸血なんていうケチな殺人はやらない。嘘だと思ったら、今夜十一時、銀座のキャバレー、エトワールへ来たれ。きっと得心《とくしん》のゆくものを見せてやる。必ず来《きた》れ!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]痣蟹仙斎」
課長は駭《おどろ》いて、手紙を持ってきた刑事を呼びもどした。誰がこのような手紙を持ってきたのかを訊ねたところ、受付に少年が現れてこれを置いていったということが分ったが、探してみてももう使いの少年の行方は知れなかった。だがこれは痣蟹の手懸りになることだから、厳探《げんたん》することを命じた。そしてその奇怪な挑戦状を握って、総監のところへ駈けつけた。
その夜のことである。
銀座随一の豪華版、キャバレー・エトワールは日頃に増してお客が立てこんでいた。客席は全部ふさがってしまったので、已《や》むを得《え》ず、太い柱の陰にはなるが五六ヶ所ほど補助の卓子《テーブル》や椅子を出したが、これも忽《たちま》ちふさがってしまった。
酒盃のカチ合う音、酔いのまわった紳士の胴間声、それにジャズの喧噪《けんそう》な楽の音が交《まじ》りただもう頭の中がワンワンいうのであった。
この喧噪の中に、室の一隅の卓子を占領していたのは大江山捜査課長をはじめ、手練の部下の一団に、それに特別に雁金《かりがね》検事も加わっていた。いずれも制服や帯剣を捨てて、瀟洒《しょうしゃ》たる服装に客たちの目を眩《くら》ましていた。なお本庁きっての剛力刑事が、あっちの壁ぎわ、こっちの柱の陰などに、給仕や酔客や掃除人に変装して、蟻も洩らさぬ警戒をつづけていた。かれ等一行の待ちかまえているものは、奇怪なる挑戦状の主、痣蟹仙斎の出現だった。痣蟹はいずこから現れて、何をしようとするのであろうか。
ところがその夜の客たちは、検察官一行とは違い、また別なものを待ちかまえていた。それは今夜十時四十分ごろに、このキャバレーに特別出演する竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアを観たいためだった。ジュリアの舞踊と独唱とが、こんなに客を吸いよせたのであった。
夜はしだいに更《ふ》けた。屋外《そと》を行く散歩者の姿もめっきり疎《まば》らとなり、キャバレ
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