「ちょっと見て来よう」
と教授はメスを下に置くと、扉《ドア》をあけて廊下へ出ていった。廊下は長かった。漸《ようや》く入口のところへ出て、パッと電灯をつけた。
「誰だな。――」
と叫んだが、何の声もしない。
「誰だな。――」
そういって硝子越《ガラスご》しに、暗い外を透してみていた教授は、何に駭《おどろ》いたか、
「呀《あ》ッ、これはいかん」といってその場に尻餅《しりもち》をつくと、大声に西一郎を呼んだ。
その声はたしかに解剖室に聞えた筈だったけれど、西はどうしたのか、なかなか出て来なかった。蝋山教授は俄《にわ》かに恐怖のドン底に落ちて、急に口が出なくなって、手足をバタバタするだけだった。
「どうしたんです、先生!」
元気な声が奥から聞えると、やっと西一郎が駈けつけた。西にやっと聞えたらしい。
「いま怪しい奴が、その硝子のところからこっちを睨《にら》んだ。ピストルらしいものがキラリと光った、と思ったら腰がぬけたようだ。どうも極《きま》りがわるいけれど……」
「ナニ怪しい奴ですって?」
一郎は勇敢にも扉《ドア》のところへ出て、暗い戸外《そと》を窺《うかが》った。しかし彼には別に何の怪しい者の姿も映らなかった。教授はきっと何かの幻影をみたのだろうということにして、彼は教授を抱《だ》き起《おこ》して、肩に支《ささ》えた。
「あッ、冷たい。君の手は濡れているじゃないかい。向うで手を洗ったのかネ」
「いえなに……」
「なぜ手を洗ったんだ。一体何をしていたんだ。法医学教室の神聖を犯《おか》すと承知しないよ」
一郎は口だけは達者な教授をしっかり担《かつ》いで廊下を元の解剖室の方へ歩いていった。
「おや、変だぞ」と一郎は叫んだ。
「なにが変だ」と教授は一郎の胸倉《むなぐら》をとったが「うん、これは可笑しい。教室の灯《あかり》が消えている。君が消したのか」
「いえ、僕じゃありません。僕は消しません。これは変なことだらけだから、静かに行ってみましょう。声を出さんで下さい。いいですか」
二人は静かに戸口に近づいた。そしてじっと真黒な室内を覗きこんだ。二人はもうすこしで、呀ッと声をたてるところだった。誰か分らぬが、解剖台の上を懐中電灯で照らしている者があった。が、それはすぐ消えて、室内はまた暗澹《あんたん》の中に沈んだ。その代り、なにか重いものを引擦《ひきず》るようにゴソリゴ
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