一郎は、目的の繁みに出た。それは灌木の欝蒼《うっそう》とした繁みで、足の踏み入れるところもないほどだった。彼は下枝を静かにかきわけながら前進した。もう屍体のある場所は間近《まぢ》かの筈だった。
「うん、あすこだ」
 繁みの葉の間からは、向うに丸い芝地が見えた。近くに電灯がついているらしく、黄色く照し出されていた。その真中には、紛《まぎ》れもなく、力なく投げだされた青白い弟の腕が伸びていた。
 すると、そのときだった。奇怪なことにも、その屍体の腕が生き物のようにスルスルと芝草の上を滑《すべ》りだした。あの大傷を受けた弟が生きかえったのであろうか。いや絶対にそんなことがありよう筈がない。すると――
「あの怪人めが屍体にたかって、また破廉恥《はれんち》なことをやっているのだな。よオし、どうするか、いまに見ていろ!」
 彼の全身は争闘心に燃えた。こうなってはもう誰の救いも要らない。愛する弟のために、この一身を投げだして、力一杯相手の胸許にぶつかるのだッ。
「さあ来いッ」
 彼は一チ二イ三ンの掛け声もろとも、エイッと繁みの中から芝草の上へ躍りだした。
「さあ来いッ――」
 ……と躍りだしてはみたが、そこには思いもよらず――
「アレーッ」
 という若い女の悲鳴があった。
「おお、貴女《あなた》は……」
 一郎はあまりの意外に、棒のように突立ったまま、言葉も頓《とみ》には出なかった。意外とも意外、その芝草の上に立っていたのは誰あろう、いま都下第一の人気もの、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアその人だったからである。


   裂《さ》かれた日記帳


「あら、驚いた。……まア、どうなすったの、そんなところから現われて……」
 ジュリアは唇の間から、美しい歯並を見せて叫んだ。
 しかし彼女は、それほど驚いているという風にも見えなかった。それが舞台度胸というのであろうか。高いところから得意の独唱をするときのように、黒いガウンに包まれたしなやかな腕を折り曲げ、その下に長く裾を引いている真赤な夜会着のふっくらした腰のあたりに挙げ、そしてまじまじと一郎の顔を眺めいった。
「僕よりも、赤星ジュリアさんが、どうしてこんなところに現われたんです」
 と、一郎は屍体に何か変ったことでもありはしないかと点検しながら訊《たず》ねた。
「あら、あたくしを御存知なのネ。まあ、どうしましょう」とジュリア
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