彼の顔はキリストの前に立った罪人のように、百の憐愍《れんびん》を請《こ》うているのだった。『おれが悪かった! 何でも後から相談に応じるから、おれを死なせないで呉れ給え』と、そんな風に見える真青《まっさお》の顔だった。そして尚も、助かろうとして逃げた。竹花中尉には、熊内中尉の恐ろしい決心のほどが、ハッキリと判るのだった。
実は二人の間には、こんな訳があるのだった。二人は元々K県出の、たいへん仲の善い僚友《りょうゆう》だったが、あの事件の時から一年程前に、儂も識《し》っているがAという若い女が、二人の間近かに現われてからというものは、急に二人は背《そむ》いて行った。そのAという女は、非常に眼と唇とのうつくしい、そして色がぬけるように白くて、真紅な帯や、真紅な模様の羽織なんかがよく似合う少女だった。笑うと、ちょいと開いた唇の間から、真白な糸切《いとき》り歯《ば》がニッと出てくるのが、また何とも云えない程可愛らしく見えた。そのAさんという少女に、二人が同時に惚れこんだのも、全く無理のないことだった。しかしお互に、相手の気持を知ると、二人は二十幾年の友情も、プッツリ忘れてしまった。彼等は、表面は何喰わぬ顔で勤務をしていながら、内心では蛇と狼とのように睨《にら》み合《あ》っていたのだ。彼等は悪竦《あくらつ》な手段で、お互《たがい》を陥《おとしい》れ合った。自分の血で、相手の骨を洗った。
その結果、Aという女は、遂に竹花中尉の方へ傾いてゆき結納《ゆいのう》までとりかわされ、この演習が済むと、直ちに水交社《すいこうしゃ》で婚礼が挙げられることにまで、事がきまっていたのだった。あわれ、恋に敗れた熊内中尉は、悪魔におのが良心を啄《ついば》むに委せた。そこで中尉の恐ろしい復讐が計画されたのだった。
『竹花にあの女を与えてなるものか。また、自分を此処まで引張《ひっぱ》りまわした女に、素直に幸福を与えてなるものか』そういって熊内中尉は歯を喰いしばったのだった。『ようし、見て居《お》れ、竹花のやつを、地獄へひきずりこんでやるんだ。やつが、おれの計画に感付いたとき、どんな泣きッ面をするか。そいつを見ることが、ああ、せめてもの娯《たの》しみだ。吠《ほ》えろ、喚《わめ》け、竹花中尉!』
熊内中尉の計画は見事に効を奏したのだった。儂があの時覗いた竹花中尉の『死』への反発『生』への執着《しゅうちゃく》に腫《は》れあがった相貌《そうぼう》は、あさましいというよりは、悪鬼のように物凄いものだった。さすがの儂も眼を蔽《おお》った。やがて気がついてみると、二機は互に相手の胴中を噛合《かみあ》ったような形になり、引裂かれた黄色い機翼を搦《から》ませあい、白煙をあげ海面目懸けて墜落してゆくのが見えた。それが遂に最後だった。戯《たわむ》れに恋はすまじ、戯れでなくとも恋はすまじ、そんなことを痛感したのだった。儂は、あの日のことを思い出すと、今でも心臓が怪しい鼓動《こどう》をたてはじめるのじゃよ」
そう云って川波大尉は、額の上に水珠《みずだま》のように浮き出でた油汗を、ソッと拭《ぬぐ》ったのだった。丁度《ちょうど》その時、時計は午後十時のところに針が重《かさな》ったので、三人はその儘《まま》、黙々《もくもく》と立って、測定装置の前に、並んだのだった。
3
第二話 星宮理学士の話
「さて僕には、川波大尉殿のような、猟奇譚《りょうきたん》の持ち合わせが一向にないのだ。といって引下るのも甚だ相済まんと思うので、僕自身に相応した恋愛戦術でも公開することにしよう。
さっき、大尉どのは、『戯れに恋はすまじ、戯れならずとも恋はすまじ』と、禅坊主《ぜんぼうず》か修道院《しゅうどういん》生徒のような聖句《せいく》を吐かれたが、僕は、どうかと思うね。それなら、ちょいと伺《うかが》ってみたい一条がある、とでもねじ込みたい。大尉どのの、あの麗《うるわ》しい奥様のことなんだ。あんな見事な麗人《れいじん》をお持ちでいて、『恋はすまじ』は、すさまじいと思うネ。僕は詳《くわ》しいことは一向知らないけれど、余程のロマンスでもないかぎり、大尉どのに、あの麗人《れいじん》がかしずく筈がないと思うんだ、いや、大尉どのは憤慨《ふんがい》せられるかも知れないけれどね――。で僕に忌憚《きたん》なく云わせると、大尉どのの結論は、本心の暴露《ばくろ》ではなく、何かこう[#「こう」に傍点]為めにせんとするところの仮面結論《かめんけつろん》だと思うのだ。大尉どのの真意《しんい》は何処にある? こいつは面白い問題だ――と、イヤにむきになって喰ってかかるような口を利くのも、実はこうしないと、これからの僕の下手な話が、睡魔《すいま》を誘《さそ》うことになりはしないかと、心配になるのでね。
そこで、僕に
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