き気《け》を催しても、彼の喰った栄螺は、もはや半ば以上消化され、胃壁を通じて濁った血となったのだった。頸動脈《けいどうみゃく》を切断して、ドンドンその濁った血潮《ちしお》をかいだしても、かい出し尽《つく》せるものではなかった。彼の肉塊《にくかい》をいちいち引裂いて火の中に投じても、焼き尽せるものではなかった。彼は自己嫌悪の全身的な嘔吐《おうと》と、極度の恐怖とを感ずると、
「ギャッ」
 と一声、獣のような悲鳴をあげて、その場に卒倒したのだった。呪われたる人喰人種――。
     ×
 それを見届けると、大蘆原軍医は始めて莞爾《かんじ》と笑って、側《かたわ》らに擦《す》りよってくる紅子の手をとって、入口の扉《と》の方にむかって歩きだした。
 今宵、紅子は、彼女の良人《おっと》、川波大尉を射殺して置きながら、それを振返ってみようともしないのは、どうしたことであるか。それは、川波大尉こそは、第一話に出て来た熊内中尉に、あの恐ろしい無理心中を使嗾《しそう》した悪漢だった。そのために、当時、鮎川紅子《あゆかわべにこ》と名乗っていた彼女は、愛の殿堂《でんどう》にまつりあげておいた婚約者の竹花中尉を、永遠に喪《うしな》ってしまったのだった。
 いわば、今宵《こよい》の良人《おっと》射殺事件は、あたかも竹花中尉の敵打《かたきう》ちをしたようなものだった。この隠れた事実を、紅子が知ったのは、極《ご》く最近のことで、それを教えたのは、炯眼《けいがん》きまわる大蘆原軍医だった。今夜の紅子の登場も、無論、軍医の書いたプログラムの一つだった。
 ここへ来て、この軍医を賞讃する前に、読者諸君は、すこし考えてみなければならない。それは、いくら愛する妹の復讐とは云え、彼女の産みおとしたものを、人間に喰わせるという手段が、人道上許されるものであろうかどうか。奇怪にも友人の細君だった婦人を、狎《な》れ狎《な》れしく、かき抱いてゆく大蘆原軍医は、誰よりも一番恐ろしい、鬼か魔かというべき人物ではあるまいか。
 それはそれとして、二人の姿が、戸外の闇に紛《まぎ》れて、見えなくなった丁度その時、血みどろに染った二つの死骸が転っている実験室では、真夜中の十二時を報ずる柱時計が、ボーン、ボーンと、無気味な音をたてて、鳴り始めたのだった。



底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平
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