》のものとしてしまったからである。
「旦那さまぐらい燻製ものに理解がおありになり、そして燻製ものをお好みになる方は世界に只《ただ》お一人でございますわよ」
 と、鉛華も遂《つい》に本当のことをぶちまける。いよいよチャンスは来たぞと、燻製屋に化けこんで苦労のかぎりを今日まで尽《つく》していたルスとベラントは、うれしさが腹の底からこみあげてくるのを一生懸命に押し戻し、
「まあ、そういう頼母《たのも》しい御方さまに巡り会いますなんて、神様のお引合わせですわ」
「そうだとも。それに……ちょっとこっちへ来てください、美しい鉛華さん」
「あら、お口がお上手なのね。警戒しますわ」
「いやなに、ざっくばらんの話ですが、貴女《あなた》が金博士にわれわれをとりもって下されば、博士の貴女に対する信頼は五倍も十倍も増しますよ。俸給《ほうきゅう》も上るでしょうし、うまいものも喰べられる。そればかりじゃない、われわれも儲けの一部を貴女に配当します。もちろんこれは断じて闇取引じゃない、正当なる利得ですし、それにねえ鉛華さん……」
 と、ベラントは此所《ここ》を先途《せんど》と商才のありったけをぶちまけて、遂に鉛華を完全に手に入れてしまったのである。
 そうなると、一刻も早く本当の商売に突入しなければならない。ルスは各種の燻製料理をぎっしり詰めこんだ食品容器をさげベラントに目配《めくば》せをする。そこで三人は打連《うちつ》れだって金博士の住む地下室へと下りていった。
 金博士は、睡眠から覚めて、部屋の中をよぼよぼと歩きまわっていた。
 骸骨《がいこつ》のように大きい頭、黒い眼鏡、特徴のある口髭《くちひげ》頬鬚《ほおひげ》頤髯《あごひげ》、黒い中国服に包んだ痩せた体――一体この体のどこからあのようなすばらしい着想とおそるべき精力とが出て来るのであろう。
「ふふふん、ふふふん、ふふふん」
 金博士は、妙な咳払《せきばら》いをつづけさまにして、部屋の中を動きまわっている。失意か、得意か、さっぱり分らない。チーア卿が開け放しにしていった大金庫の前を幾度か行き過ぎるが、その方には見向きもしない。
 そこへ鉛華が入って来た。
「先生、町に素敵な燻製料理を売っていましたので、買って参りました」
「燻製か。燻製はもうたくさんじゃ」
「あらっ、先生のお好きな燻製でございますよ」
 鉛華は博士の答に、意外な面持。うしろではルスとベラントが心配そうな顔を見合わせる。
「燻製はもうたくさんじゃというのに。さっき、いやというほどカンガルーの燻製を喰ったよ。腹一杯になった」
「まあ、どうして召上ったのですか」
「泥棒がここへ持って来て、わしに喰えといった」
「泥棒が……」
「そうだよ。チーア卿といってな、チャーチル奴《め》の特使じゃよ。モヒ中毒を装った苦《に》が苦《に》がしい男じゃ」
「それが泥棒でございますか」
「大泥棒じゃ。あれを見よ。わしの大金庫から新兵器の設計書袋を二|抱《かか》えも持って逃げよった。怪しからん奴じゃ」
「まあ、それで先生は、その泥棒をお捕えにはなりませんでしたの」
 驚きは鉛華よりも、後に控えたルーズベルトの特使ルス嬢とベラントの胸の中《うち》だった。折角《せっかく》来たが、チャーチルの特使に一足お先へやられてしまったとあっては、甚だ拙《まず》い。
「あの泥棒は逃がしてやった。それにわしはすっかり腹がくちくなって、指一本動かすのも大儀《たいぎ》じゃったからなあ」
「まあ、いつもの先生なら、決してお逃がしになるのではありませんでしたのに……」
 ルス嬢はこのときそっと鉛華の袖を引いた。それで鉛華はわれに帰って、金博士に燻製をすすめる役を引受けたことを思出したが、こうなってはどうにもすすめようがない。その困り切った顔を見て取ったベラント、すかさず前にとび出し、博士に倚《よ》り添《そ》って聞き始める。
「金博士。私達は、燻製料理を持って伺いましたが、実はルーズベルトの特使でございまして……」
 と、臆《おく》せず底をぶちまけるアメリカ流に、博士は驚くかと思いの外《ほか》、
「分っとるよ。ベラントにルス嬢じゃろう。わしの発明兵器を、わしごと買い取りに来たのじゃろう」
 と、ずばり図星《ずぼし》をさした。ベラントの愕き、
「ええっ……」
 といったまま、あとが続かない。
 こういうときに婦人は度胸《どきょう》のある者、ベラントがノック・アウトされたと見て、前にとびだして博士の腕を抑える。
「今お呼び下すったルス嬢でございます。仰有《おっしゃ》ったとおりのわけですから、ぜひ契約して頂きとうございます。その代り博士のお望みは何なりと……それに特別精製のアメリカ名産バイソンの燻製を一口召上って下さいまし。これこそ世界最高の珍味でございます」
 金博士をくどくには、いつの時代にあっても燻製料理によるのが捷径《しょうけい》だという鉄則を、ルス嬢もはずさない。はずさないばかりか、ルス嬢は躊躇《ちゅうちょ》の色もなく、博士の前に燻製バイソンなどを詰めあわせた食料容器の蓋をぽかんと払ったものである。


     4


 やっぱり効目《ききめ》があった。燻製料理は、金博士にとって、恰《あたか》もジーグフリードの頸《くび》に貼りついた椎《しい》の葉の跡のようなものであった。それが巨人に只一つの弱点だった。博士は今や羊のように温和《おとな》しくなって、前にルス嬢とベラント氏を座らせている。尤《もっと》も博士自身は、両人提供のバイソンの燻製を大皿にうつして、盛んにぱくついている有様だった。
 人見知りをしないで、核心《かくしん》にとびこんでいく心臓人種のアメリカ人のことなれば、嬢も氏も、こうなっては燻製屋の仮面をさらりとかなぐり捨て、ルーズベルトの特使でござると名乗りあげて、金博士の前に陣を構えているわけである。事は早くなければならない。「博士。飛切り上等の物凄い新兵器として何を提供して頂けましょうか」
「うむ。むにゃむにゃ……」
「それを使えば、敵側は全く処置《しょち》なしという凄《すご》いものを御提供願いたい。そのお礼の一つとして、博士をアラスカへ御案内したいですな。エスキモーの燻製など、天下の珍味でございますよ」
「わしは人間は喰わぬ」
 と、人を喰った博士が、コップから水をごくりと飲んでいった。
「今のはベラントの失言《しつげん》でございます。博士、世界をたちまち慴伏《しょうふく》させる新兵器といたしましては、どんなものを御在庫《ございこ》になっていましょうか」
「分っているよ。では案内しよう」
 博士は、今日は珍らしく事《こと》の外御機嫌|斜《なな》めならず、両特使を引連れて、研究室へ導く。
「ここにあるのが、訪問者の身許透視器《みもととうしき》だ」
 と、博士は壁に嵌《は》めこんである複雑な弱電装置を指し「入口の扉に近づくと、この人体周波分析器が働いて、その人物のあらゆる特徴と思想を分解し、こっちの自記記録紙の上にプリントするのだ。ほら、これが例のチーア卿の分だ。あとの二つが君達両人の分だ」
 と、自動ピアノの鑽孔布《さんこうふ》のようなものを引張り出して示す。ルスとベラントは、どっと冷汗をかく。
 次の部屋は模型室だ。そこへ一歩を踏み入れた両特使は、棚にぎっちりと並んだ夥しい兵器模型にたちまち魂を奪われた。
「これは何でしょうか」
「これは何ですの」
「ああ、それは陳腐《ちんぷ》なものばかりじゃ。今列国の兵器研究所が、秘密に取上げているものばかりだよ。今頃そんなものに手をつけては手遅《ておく》れじゃ。こっちへ来なさい」
 博士は興味のない顔で次の室《へや》へ。
「この大金庫の中には、世界一を呼称《こしょう》する新兵器の設計書袋が五百五十種入って居る」
「ほう、五百五十種もですか」
「そうじゃ。さっき泥的チーア卿《きょう》が、この中の五十三種を攫《さら》っていってしまったよ」
「ええ、チーア卿が……あの、五十三種も……。それはたいへんだ」
「なあに、愕くには当らんよ。もうあと三十分もすれば、チーア卿は後悔するだろう」
「と申しますと……」
「あの五十三種の書類はあと約三十分すれば、自然発火するんじゃ」
「自然発火?」
「そうじゃ。この書類は一定の温度と湿度と気圧のところに在る限り安全じゃ。つまりこの部屋はその適切なる恒久状態においてある恒温湿圧室《こうおんしつあつしつ》なのじゃ。したが、一旦他へ搬ばれ温度と湿度と気圧が違ってくると、一定時間の後には用紙が変質して自然発火するのじゃ。チーア卿は、さっきの装置で調べると、今飛行機にあれを積んでインド方面へ向けて飛行中だが、見ていなさい、あと三十分で飛行機は空中火災を起して墜落じゃ。泥棒にはいい懲《こら》しめじゃよ」
「へえん、それはそれは……」
 ベラントとルスとは、目を三角にして、互いに顔を見合わせた。
「わしは元来淡白じゃ。君たちの要求をもう一度改めて聞いて、すぐそれに適《かな》ったものを売ってあげよう。希望をいってみなさい」
「はあ、それは有難うございます。博士、アメリカの欲しいものは、世界一の物凄い破壊新兵器で、これを防ぐに方法なしというものを頂きとうございますの」
「そうなんです。戦艦と雖《いえど》も飛行機には弱く飛行機と雖もロケーターには弱く、ロケーターと雖も逆ロケーター式ロケット爆弾には弱い、金博士と雖も燻製料理には……いや、これは失礼……というわけですが、ルーズベルトのお願いしたいと申す新兵器は絶対に弱味のない不死身《ふじみ》の手のつけられないハリケーンの如き凄い奴を、どうぞ御提供願いまする」
「そうか。そういうことなら共軛回転弾《きょうやくかいてんだん》が条件にぴったり合っている」
「えっ、共軛回転弾。ああ、なんというすばらしい名称でしょう。大統領はどんなにおよろこびになることでしょうか」
「ええと、あれは第五十四号だったな」
 と、博士は大金庫の中から設計書類の一つを引張りだした。袋の口から中を覗いていたが、するりと抜きだした折畳んだ大きな紙。それを机の上に拡げる。
「あら、白紙《しらかみ》だわ」
 ルスが愕いた。
 博士は無頓着《むとんちゃく》に、その大きな紙の四隅をピンでとめた。それから机の下をさぐっていたが押し釦《ボタン》の一つをぷつんと押した。すると紙がぱっと蛍光色《けいこうしょく》を呈して光りだした。空白《くうはく》の紙上にはありありと図面が浮び上る。
「共軛回転弾というのは、こういう具合《ぐあい》に、二つの硬《かた》い球が、丁度《ちょうど》鎖《くさり》の環《わ》のように互いに九十度に結合して、猛烈な高速で回転するのだ。そして互いに相手を励磁《れいじ》して回転を促進し、永久に停まらない。この硬い球は、原子核の頗《すこぶ》る大きいものだと思えばよろしい、わしが五年かかって特製したものだ。硬いこと重いことに於て正に世界一。そしてこれを共軛回転させてスピード・アップすると、その速力は音波の速力の約三十倍となる。そこへ持って来て、これは一名『鉄の呪い』という名があるくらいで、鉄材を追駆けて走りまわるのじゃ。じゃによって、いかなる戦車群、いかなる大艦群《だいかんぐん》、いかなる武装軍も、たちまちこの回転弾のために粉砕されてしまうというわけだ。この共軛回転弾によって破壊し得ないものは、この地上に一つもない。どうじゃ、聞いているのか」
「ええ、聞いていますとも、まあなんというすばらしい新兵器でしょう」
「ああ、一千億ドルの値打があるよ。現物《げんぶつ》はこっちにある。来てみなさい」
 金博士は悠揚迫《ゆうようせま》らず、更に奥の部屋に案内する。そこは倉庫のようなところだった。博士の立停って指すところに、一つの木箱《きばこ》があった。箱の大きさは二|米《メートル》立方。
「これじゃ。この中に入っとる」
「まあ、危くありませんの」
「いや、まだ起動《きどう》して居らぬから危くない。この棒を抜くと、まず一部分に静かなる化学変化が起り始める。その化学変化がだんだん発達して、小さな歯車が動きだす。電気が起る。
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