前に立ちつくした。僕はいまだにその妖艶《ようえん》とも怪奇とも形容に絶する光景を忘れたことがない。僕は敢えてここにその描写を控えなければならないが、女史が生前つとめて黒い着物を選んでいたのは、女史の豊満な白い肉塊《にくかい》を更に生かすつもりであったことと、女史が最後につけていた長襦袢《ながじゅばん》が驚くべき図柄《ずがら》の、実に絢爛《けんらん》を極《きわ》めた色彩のものであったことを述べて置くに止《とど》めたい。
 茫然《ぼうぜん》と突っ立っている僕の側《そば》を、何処《どこ》に居たのかミチ子が脱兎《だっと》の如く飛び出して、螺旋階段を軽業のように飛び上って行ったが、呀《あ》ッという間にまた上から飛び降りて来たのであるが、どうしたものか、まるで音がしなかった。それとともに何ヶ月振りかで彼女の白い太股についている紫色の痣《あざ》のようなものを見た。それは軽業師《かるわざし》にして始めてよくする処の外のなにものでもない。僕は四宮理学士が先刻《さっき》言った言葉を思い出して、悒欝《ゆううつ》になった。それにしても四宮氏は二階に居ないのかしら。
「四宮さん!」
「……」
「四宮さんは二階に殺されていてよ」とミチ子が耳の傍《そば》で囁《ささや》いた。サテは、と思って僕がミチ子を見据《みす》えた時、階上で叫ぶ声が聞えた。
「一体どうしたのだ。医師《いしゃ》を五六人呼んでこい。早く早く」
 その騒ぎのうちに僕はミチ子を逃してやりたかった。
「早くおにげ」僕はかすれた声を彼女の耳へ送りこんだ。
「まア、なにを言ってるの、貴方こそお逃げなさい、今のうちに」そう云って彼女は袖の中から褐色《かっしょく》の表紙のついた本を僕に手渡すではないか。それは例のカラクリに用いたスコットランド・ヤードの報告書であった。僕は狐につままれたようになにがなんだか判らなくなった。
「なにを勘ちがいしているのだ、僕じゃない」
「隠しても駄目よ。あんた、三階の階段にこの本を置いといたでしょう。リューマチの佐和山さん、あの本を踏むと滑《すべ》り落ちたのよ、なにもかも知っているわ、所長のときのこと、四宮さんのこと」
「いやちがう」僕は当惑した。何と言ってミチ子をなだめたものだろうかと眼の前に立つミチ子の肩をつかまえようとしたときに、佐和山女史|墜落《ついらく》の音をききつけた所員が方々からドヤドヤと駈けつけた。
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