陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。
果して天王山だったのか、関ケ原だったのか。それは尚相当の時日を貸さなければ判定できないが、この天王山だの関ケ原などという用語が、あまり感心出来ないものであることは確かだ。それは国民の戦力|敵愾心《てきがいしん》を集結させるために余儀ない強い表現であったかもしれないが、今度のように沖縄がとられてしまったとなると、もうあとは戦っても駄目だ、日本の国はおしまいだという失望におちいって、動きがとれなくなる。これは困ったことだ。
当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関ケ原でもなかった。そんなに重要でない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関ケ原だといったのだと、いいたくなるわけだ。
これに対して、鎌倉円覚寺管長の宗海和尚はこういっている。「沖縄は天王山であり、関ケ原である。あれはとられたが、ぜひとも奪還しなければならぬ、それほど沖縄は重要なのである、という風に持って行くべきじゃ」この説まことに尤もである。最近では遠藤長官が、この奪還論を掲げるに至った。
◯昨十三日午前零時頃、久方ぶりに敵B29、五十機京浜地区を夜襲し、川崎、鶴見を爆撃した。爆弾と焼夷弾とを投下したが、折柄豪雨で、そのために発生せる火災は間もなく消えてしまった。敵のためにはお気の毒を絵にかいたようであった。
◯七月一日より五日まで、山梨県下に甘藷二十七億貫植付の激励講演をして廻った。甲府市には二日、三日、四日といた。その二日後の六日夜にはB29の大編隊が来て、市を八、九割焼いてしまった。きわどいところであった。
甲府はこの上もない安全地帯だと思っていたが、来てみると、地下一尺五寸にして水が出て、防空壕が深く掘れず、山国ゆえ食糧の移入困難の恐れもあり、加えて陸軍大学等の諸官|衙《が》がここへ疎開している上に軍隊がたくさん居るので、食糧事情は一層困難だということであった。もちろん家も空部屋もなく、旅館で部屋のとれないことは甲府の名物だとあった。
私が甲府を離れた七月四日に、ようやく建物疎開をすることが決まったばかり。すべては油断があり、遅すぎた。しかし空襲が一度もなかったこの市民たちを、大いに緊張せしめる事の出来なかったのは、何としても知事以下の努力の足らざるところと思われる。
県庁も、駅も、郵便局も、警察署も焼け残ったそうで、その奮闘はたいしたものであったというが、それだけが焼残っただけでは困る。町が焼けずに残らねば何にもならぬ。
◯七月八日は栗橋の吉田修子さんの婚礼があり、目下入営中の戸主・卓治さんの心持もあり、私はその式に列した。それから平磯へいって講演をしたが、それが九日。十日は早目に帰京するつもりでいたところ、朝五時半から敵機動部隊が鹿島洋、九十九里浜沖から艦載機をぶんぶんとばすので、夕刻まですっかり平磯館に閉じこめられてしまった。
ロケット弾を放つ小癪な敵機を見た。平磯館の裏は飛行場であるから、盛んに銃撃があった。しかしたいてい敵機が帰りがけの駄賃に撃っていった。
平磯では取締りがやかましく、皆防空壕に入れといったり、町をあるいていると叱りつけたり、こんな小さな町がそう神経質にならずともと私は思ったが、誰の心理も自分のところが狙われているのだと信ずることには変わりはないようだ。
午後五時四十分平磯発の汽車で、松村部長と共に帰京の途についたが、これが十二時間ぶりに動き出した初列車。水戸から上野へ走る列車はがらがら空いていて、乗客一人当たり六席か七席もあった。
渋谷からは歩いて帰る。渋谷着は午後十一時十分であったが、玉川線は十時半が終車ゆえ、歩くしかない。焼跡の間の一本道を大坂上にかかったとき、警戒警報が発令された。あまり灯火を消す風も見えず、憲兵隊の漏灯をはじめ、民家にもコウコウたる点灯の洩れているのを見る。焼跡だからとの油断らしい。大橋に至り、焼けていない目黒方面を見ると、灯火管制は完全であった。焼跡住民の士気弛緩は慨《なげ》かわしい。
帰宅までに二度、お巡さんから誰何《すいか》された。リュックの中の品物について訊問を受ける。それが大鯛であり、防空頭巾をかぶせてもまれるのを防いであるので、余計に大きく見える。この鯛は貰って来たものである事や、空襲下の平磯からようやく開通の列車で帰って来たことなどを話して、諒解して貰った。
◯中小都市の爆撃が始まり、猖獗《しょうけつ》を極めている。そのさきがけは、五月二十九日の横浜市への五百機来襲であった。
◯御影の益兄さん一家も、芦屋、御影、神戸東部の濃密爆撃のため、全焼した。しかし一同無事。
姉さんと圭介君は、益兄さんの勤務している広島の近くへ行くし、咲ちゃんと修ちゃんは御影へ残ることとなり、それぞれの友人の宅に置いて貰う。ほかに良ちゃん[#朝永良太]はうちに下宿中、洋二君は商船学校に在学中で、一家六分離した状態となった。
◯親類ですでに戦災せるは、牛込岩松町の山中作市氏一家、ほかに樋口(中野)、中条(代々幡)、常田(厩橋)である。
◯清水も過日、濃密夜爆を受けたという。羽部家は如何かと案じているが、たぶん大丈夫だと思う。町はずれにあるからそう思うのである。
◯偶然焼け残ったというところはない。懸命の努力で消火したればこそ焼け残ったのである。
◯本十四日、敵機動部隊は再び艦載機で攻撃を開始した。時刻は同じ五時半より。地域は主として東北方面である。
七月十五日
◯昨十四日は釜石が敵艦隊のため艦砲射撃を受けた。本州艦砲射撃の最初である。
◯昨十四日は、二次のKB《きどうぶたい》来襲。主として東北及北海道南部。
◯やはり昨日、森村義行君を玉川電車の一列行列の中に見出す。聞けば「焼けたよ」との事、「ファベルをすっかり焼いて残念だ」といっていた。ファベルとは独逸の鉛筆のことである。うちにあるのを少し分けてあげると約束した。
七月十六日
◯森村義行君を瀬田へ訪問。気の毒になる。
◯東部三十三部隊。
七月二十一日
◯最近のB29は、一機にて入り来り、大型爆弾や焼夷弾を投下する。今日も昼頃来て、うちの南方に焼夷弾を落として行った。
◯昨日の嵐に、近海行動中の敵機動部隊もさぞゆられたことじゃろう。
◯本日地下物置のものをすっかり出して乾す。昨日の嵐に、大分浸水したからである。これもアメリカのお蔭かと、憤慨しながら力を出す。
七月二十六日
◯一昨日、中部以西へB29、七百機、その他小型機合計二千機来襲す。これまでの記録破りの賑かさなり。折柄、ポツダムに於いてスターリン、トルーマン、チャーチルの三頭会談を開催中であり、その宣伝効果をねらったものと報道される。わが方の飛行機さっぱり応戦せず、ただ地上砲火によって反撃したのみ。
◯清水の羽部さんも過日戦災したことが判明した。鎌倉のおばあちゃんからの知らせがあったからである。だいぶあわてたらしく、澄子さんもいいもんぺやシャツを着るのを忘れて、一等みすぼらしいもののまま焼け出されたとか。全く気の毒。敵への憤激は日に日につのるが、さてこっちは空へ手が届かず、まことに残念。地道ながら努力して戦力を盛りかえすしかない。
ちなみに一家は茨城県太田へ移ったという話だが、この太田は日立よりやや北方、海岸ではないが海に近く、あまり安全とは申されない。しかしお互いさまに縁故先に適当なのがなく、それに差し当たり食糧が果してうまく手に入るかという問題があるので、危険でも何でも縁故へ落ちついて、まず食べられる安心を求めるのである。食はなにしろ皆が毎日のことだから大変な仕事であり、問題である。
◯昨夜B29、五十機ばかりが午後十時頃より京浜地区に侵入、主として川崎を爆撃した。折柄満月であったが、煙がだんだん高く天空にのぼり、せっかくの月の光を消してしまった。ふと「鵜飼」を思い出した。
零時半頃には、「最終機」などの言葉が警報に出る。まだ数十機そこそこであるから「最終機」などと安心していられないように思ったが、電探ではたしかに押さえているんだから正確、まもなく空襲警報解除となり続いて警戒警報も解除となり、そして寝た。
川崎にまだ焼けるところが残っていたかと不思議な気持。
◯夜半敵機来襲に、身のまわり品や机の周囲のものを見廻して、防空壕に入れるべきものは何々ぞと考えると、どれもこれも大切――というよりも重宝なものばかりであるにはまごつく。
確かに防空壕に入れておいた筈のものが、いつの間にか、また手もとにずらりと並んでいるのには驚く。つまり、日々の生活のために必要だとあって、壕から取出して来て使い、そのままになってしまったものが、だんだんふえて来たわけである。さてこそ日用品というものは大切であり、重宝なわけ。万年筆一本、ナイフ一挺、メモ一冊なくなっても不便この上ないわけ。われわれの生活様式も一段と工夫を積まねばならぬ。
七月二十九日
◯昨日は岡東浩がえらくなったというので、招待してくれた。どうえらくなったのかわからぬが、とにかくうれしい話で、土産ともお祝ともつかずジャガイモの包をもって家を出かけた。玉川電車を渋谷で下りて、都電に乗ろうとして、渋谷から天現寺、四の橋行きはありますかと聞いたところ、今はやっていないとの事、なるほどそうであったかと、新橋行で行くことにする。くる電車もくる電車も素通りで、八、九回目にようやく乗れたが、一列に並んでいる人達何の苦情も言わず。心得がいいというか、よく心得ているというか、おとなしい都民達だ。
宮益坂を電車はのぼる。「明治天皇御野立所」と書いた神社跡が左にある。この奥の社殿は形もなし、こま狗だかお狐さんかの石像が二つ、きょとんと立っている。
渋谷郵便局もすっかり焼けたままになっている。一階の事務をとっていたところは、腰板からしてない。あれはコンクリかと思っていたが、木であったことがこれでわかった。
古本屋もすっかり跡片なし。あの夥しい埃の積んだ本が皆焼けたかと長歎した。新本にちょっとさわると、本のあつかい方がよくないといってえらく叱りつける本屋があったが、この本屋も跡片なし。渋谷から青山の通りを経て赤坂見附まで全くよく焼けたもの。古くからの、そして充実した町であっただけに灰燼《かいじん》に帰した今日、口惜しさがこみあげてくる。
材木町で下りて、歩き出した。南浦園も外側の支那風のくりぬきのある塀だけが残っている。あの粋な築山《つきやま》も古木も見えず。支那風のくりぬきから中をのぞけば、奥の方に桃色の腰巻が乾してあるのが目についた。僅かに南浦園のかおりがする。
角に消防署があるところで左へ曲って仙台坂へ出るつもりであるが、行けども行けどもその消防署が見えぬ。そこで心細くなって、右側にバラックを建てて住んでいる家へ声をかけて聞くと、ていねいに教えてくれた。「すっかり焼けて町の様子が変わっていますがな……」とその老人は元気な声で語った。
消防署は焼けずにあったが、私の考えた二倍以上も道のりがあるように感じたのはふしぎである。そのあたりへ行って、初めて家が焼けないで残っている。その古いごたごたした家並を見ると、なんだか変な気持になった。残ってよかったと思うよりもこれも一緒に焼けてしまえばもっときれいになったろうにと、妙なことをちょっと考えた。焼跡は案外きれいである。そして広々と見晴らせて、明治以前の江戸の土地の面影がしのばれて気持ちがよい。
岡東の家にたどりついた。すでに朝倉、加藤両氏が到着していて、酒宴が始まっていた。たいへんな御馳走で、目をまわした。酒もかなりある様子。酒を飲まぬ私は、意地きたなく食いすぎて腹をこわすまいぞ、近頃食いなれないものを口にして腹をいためまいぞ、と自分に言い聞かせつつ、いろいろと御馳走になった。
あとで鳥や肉やの御馳走をそう思い出さず、イカの塩からとトマトの味がひどくうれしく
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