っても紙屑同様にて一向ありがたみが感ぜられないのに対し、たとえ百円なりでも新円を貰うと、たいへんうれしい。
従って新円稿料のところと、封鎖稿料のところとがあると、仕事についても進行速度も張合もその出来ぶりまでが違ってくる。あさましいともさもしいともいえることではあるが、しかしやはりこれは人情であろう。
五月六月遅配と欠配、食糧難深刻、餓死者続出、附近の家々も最後の最悪の事態に陥つ、泪なしには見られず聞かれず。
六月七月小喀血の事
◯六月二十九日正午過ぎ、痰が赤くなり始め、それより小喀血。
五日ほどして起きたり。
ところが七月七日の午前一時頃痰が赤くなりはじめ、就寝せるも睡りやらず、しきりに痰出でて目がさめ、そのうちに午前四時頃喀血す。従来に比して多量にして、盛んなるときは紙にもとり能わず。洗面器にも吐く暇なく、息つまりそうにて胸がごとごといいてそのまま血をのみこみたり。村上先生来診、応急措置をいたされ、咳とめ注射のおかげにて陶然となりぬ。この喀血は三日間相当ありて全量二百グラム位かと覚えたり。村上先生毎日三度来宅、懇切なる手当をつくされ、その甲斐ありて十日目には血痰も消えたり。十四日目より床上に起き上る事を許されしが、この二週間例年になき発熱の日つづきたること故、寝ていることの辛さ、ことに枕に頭をつけての食事は、機関車の中にあるの想いにて苦しきことなりき。[#前妻のたか子は、一九二六(大正十五)年に結核で死亡。看病に当たった海野も感染し、いったんは回復したが、一九四二(昭和十七)年に海軍報道班員として南方に派遣された際、再発していた]
七月二十六日
◯異状なし。
◯朝、常田君|漢口《ハンコウ》よりかえりて初めて来訪あり、話を聞く。精神力と幸運にて、かぼそき方の身体の所有者たる君は助かったり。(目下、千葉県)
◯安達君来り、かつぶしを土産にくれる。
◯女房大分よろし。安達君が私を叱りて軽挙を戒めるのでたいへん御きげんなり。
◯育郎ちゃん、ちょうど生後半年。今、うちに在り、元気にて、ひっくりかえりて腹匐《はらば》う事を覚えたり。父親の徹郎君は過日広島へ赴き、新就職。
七月二十七日
◯浪速書房「心臓の右にある男」の校正後半出る。
八月一日
◯B29、三十機編隊にて上空を飛ぶ。沖縄とガム島よりの米部隊なりと。昨年の爆撃の味は未だ新たなり。今日は安心して空をうちながめたり。さすがに大きなる飛行機なる哉。皆々鉄格子につかまり、午飯を忘れて見上げたり。
◯颱風去りたるも、驟雨しきりなり。たちまち庭も路も川となる。
八月四日(日)
◯順調なり。
◯加藤戒三氏、見舞に来てくれる。牛の血から製したブルテイン第一号壱缶を寄贈される。血の損失に痛い私にはありがたい贈物なり。
◯蒼鷺幽鬼雄[#海野の別ペンネーム]の第二作「血染の昇降機」を書き始める。
八月五日
◯漸く暑気回復せんとす。われ順調なり。
◯昨夜の夢、椎茸飯、長野先生の授業にサボして口実に困り居る所を。
◯来客
松竹事業部宝田氏
シナ戦線五ヶ年の話。右耳朶、心臓横にうけた弾丸及迫撃砲破片の話などを。
「東京怪賊伝」の原稿を渡す。
西日本新聞社の氏家氏
サイエンスのパズル入稿の催促。
明治書院
「おはなし電気学」の補遺原稿の催促。
偕成社の矢沢氏
[#ここから2字下げ、ただし底本には組み体裁上の誤りがあり]
「まだらの紐」の内金を持参あり。偕成社の近情を聴く。社長の所業に対して好意的なる苦言を呈せん事を思い、あとに池田氏へ手紙にて拝談す。
[#ここで字下げ終わり]
夜に入りて出版の用にて竹田清治君来。折から停電。未筆稿の印税前渡し持参の連らく。
◯昌彦少し具合わるし、昨日よりなり。
八月六日
◯広島へ原子爆弾投下の一周年なり。昨年を思い、この一年間を偲び感慨尽きず。
◯昌彦、心臓を苦しがる、村上先生の急来診を乞いて注射にておさまりけり、少々熱あり。
◯昨夜の月。マンマル。
◯原稿執筆仲々進まず、漸く数枚也。
◯「地獄一丁目」などかいて夜に入りて子供をおどかしてよろこぶ。
八月八日(金)
◯昨日薬をもらいそこねて、今朝は薬抜きなり。
◯写真機屋さん来る。小型映画のセメントとフィルム二本とオシスコップ届けてくれる(九十五円)。岡東君より預かり中の映写機をテストす。モーターの廻転せざりしもの、油を入れてやっと回復する。
◯「小国」の原稿、蒼鷺もの第二回の「血染の昇降機」を書き了える。三十枚で、さっぱりまとまらず。書き直したが香しからず後味わるし。
◯朝、自由出版より電話あり、来る十五日の会合につき問合はありたるも断わる。
◯松竹事業部野口氏よりの招宴と観劇もまた断る。病気ゆえなり。
◯帆苅氏来宅、「報知新聞」が来る八月十三日より夕刊新
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