め中学、国民学校多数。
 文化的遺産では名古屋城天守閣、黒門、日比谷図書館、松村図書館など多数。
 とくに二十三、二十五日の東京空襲では秩父宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、梨本宮、北白川宮の各宮邸、東久邇宮鳥居坂御殿、李鍵公御殿などが災厄を受け、
 公共施設では外務省、海軍省、運輸省、大審院、控訴院、特許局、日本赤十字社の一部ないし大部の焼失をみたほか、
 帝国ホテル、元情報局、海上ビル、郵船ビル、歌舞伎座、新橋演舞場なども一部ないし大部を焼失した。
 なお同期間内の大都市空爆被害は、東京全焼二十五万七千戸、戦災者約百万人、名古屋全焼三万六千戸、戦災者約十一万、横浜十三万二千戸、戦災者約六十八万人と推定され、この期間中に静岡、浜松にも相当被害あり、九州、四国、山陽方面にも戦略爆撃による被害があった。

 B29機来襲
 三月  二千機
 四月  二千五百機
 五月  三千機
 5/29 横浜 B29、五百機 P百機 正午頃
     大阪東部、北部、尼ケ崎へ
     神戸東部、芦屋 B29、三百機
 6/9 尼ケ崎、明石 B29、百三十機 朝
 6/10 日立、千葉、立川 B29、三百機 P51、七十機 朝
 6/11 立川 P51、六十機 正午頃

 六月十一日
◯昨日も今日も敵機は来襲。いずれも白昼である。ただし、我家の方には投弾せず、もっぱら立川と溝ノ口か狛江らしい方面へ落として行った。昨日はB29、三百機で、日立や千葉へも行った。そして硫黄島発のP51を七十機伴なっていた。折柄、臨時八十七議会を開会中で、戦時緊急措置法案上程の最中だったが、議会は午前中休会のやむなきであった。
 今日はP51ばかり六十機、また立川ヘ。
 これらは本格上陸作戦の直接準備と解すべきか、私は、まだ少し早いと思う。
 とにかく千葉にはもはや八十万ぐらいの精兵が集っているらしく、いつでも敵を迎えうつ体制とはなっている。しかしまだ現地の姿は静かに見える。
◯武井さんという律義で正直な大工さんを中川君の妻君が紹介してくれ、前から鶏舎や炬燵《こたつ》など作ってもらっていたが、この前の五月二十五日の空襲の翌日(二十七日)ふらりと姿を我家へ現わしてくれた。実は女房から「裏の防空壕の入口の木が地上一尺ほどはみ出しているので、これを切ってほしいから、手がすいていたら来てほしい」と手紙
前へ 次へ
全86ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング