のだ。だからそういう器官が始めから存在しなかったと考えていいのだ。例えば、われわれに尾骨《びこつ》があるからといって未だ一度も尻尾《しっぽ》を振ってみたい欲望を催《もよお》したことはないですぞ、ダリア君」
「それは暴論というものですわ。尾骨のことと内耳迷路《ないじめいろ》の平衡器官《へいこうきかん》のこととは一しょに論じられませんわ。尾骨の方は、今は全然動かないのですよ。尻尾なんか人間にはぶら下っていませんし、ね。動かなきゃ尻尾なんか意味ないです。そこへいくと、平衡器官の方は現在もちろん働いている。人類が大むかし海中に棲《す》んでいたときと同様に、彼の平衡器官は、今もちゃんと機能をもって役立っているんですからね」
「ちがうよ、ダリア君。それは平衡器官といえば平衡器官にちがいないけれど、今は海の中で棲んでいるわけじゃない。空気の中に於ける陸上生活ばかりなんだ。人類の祖先が海から陸上へあがってからこっち何十万年はたっているが、その長い間の陸上生活に、かの平衡器官は退化してしまって、海中生活用の平衡器としてはもう役に立たなくなっているんだ。そこを考えなくちゃね。美しいお嬢さん」
「まあ。まあまあまあ。ディスカッションに勝った、と思って、あたくしをからかうんですね」
「からかいやしません。美しいから美しいといった、までです。急にあなたを美しいと感じたもんですから素直にいっただけです。それにもうあの方は論じつくした感がありますから、ここらでよしましょう」
「ごま化《か》していらっしゃるのね。トビ君、あなたこそもう論ずべき種がつきてしまったんでしょう。きっと、そうよ。ところがあたくしの方は、これから本格的な実証に移るのですわ。実験証明ほど、たしかなものはありませんわ。そしてあたくしは、何人をも納得《なっとく》させます。あたくしの論文は、そのときになって、だんぜん光を放つでしょう。ああ、そのときのことを今から予想しただけで胸が高鳴りますわ」
「うわッ、とんでもない。考古人類学は、詩ではないです。あなたみたいに、夢に感激ばかりしていたんでは、自然科学の正しい解決はつきませんよ」
「ああ、なんとでもおっしゃい。あたくしには、ちゃんと自信満々たる研究企画があるんですわ。まことにお気の毒さま、タングステン鋼《こう》あたまのトビ、トビタロ君」
両人の仲が険悪になって来たので、僕は見るに見かねて座席を立つと両学生の間へ顔をつき出した。
「たいへん御両所とも討論にご熱心のようですが、ひとつ僕も中に入れていただいて、乾杯といきましょう」
僕は給仕を呼んで酒を注文した。
ダリア嬢とトビ君とは、僕が顔を出すと、顔を見合わせて、すっかり黙りこんでしまった。そして給仕が酒を持って来ると、両人は席からはじかれるように立った。僕が声をかけるのも聞かずに、両人はどんどん帰ってしまった。
僕は、あとにいやな気持ちでとりのこされた。
なにかが両人の気持ちを悪くしたにちがいない。しかしそれがなんであるかについては、僕にはさっぱり心あたりがなかった。
同伴していたタクマ少年は、分かりませんと答えた。
なんだか気持ちが悪い。
劇場がはねると、僕はタクマ少年に送られてホテルに帰った。
僕は部屋にひとりとなった。やがて僕はベッドの上に横になった。
すぐには寝つかれなかった。昼間からの、あまりにも多いいろいろの刺戟的《しげきてき》な出来ごとを、それからそれへと思い続けていくと、ますます眼がさえて来た。
それにしても、辻ヶ谷君が僕を時間器械でよびもどしてくれないことが不審《ふしん》でもあり、またありがたかった。たしかに二十年後の世界を約一時間散歩してくるという申し合わせで、僕はこっちへ来たわけだ。彼は何をしているのだろう。辻ヶ谷君も一しょに来ればよかったと思う。……
急に睡《ねむ》くなった。
それがあたり前の睡さでないことに僕はすぐ気がついた。どうしたんだろうと、いぶかしく思っているうちに、僕は知覚がなくなった。
ふしぎな場所
猛烈に睡《ねむ》い。
しかし僕はそのとき自分の知覚をすこしずつ取戻しつつあったのだ。
(誰か僕に麻薬を嗅《か》がしたんだな。そして眼がさめてみりゃ僕は意外な場所に横たわっているという寸法だろう)
それは果して麻薬であったか、それとも脳|麻痺力《まひりょく》のある電波であったか、そのところは、はっきりしないが、何者かのたくらみによって僕がホテルの一室から他の場所へ誘拐《ゆうかい》されたことはたしかだった。
僕は徐々に眼ざめつつあった。
かたいコンクリートの床の間に自分が横たわっていることに気がついた。果して誘拐されたんだ。それにしても、冷たいコンクリートの上に寝かされているとは、なんという相手の無礼《ぶれい》だろう
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