人どもは了解《りょうかい》しないのですか」
「そこじゃ、実に困った対立、いや暗い問題があるんだ、この海底都市にはね」
「へえッ、こんな理想境《りそうきょう》にも暗い問題なんかがあるんですかね。それは一体どんな問題なんですか」
僕は非常に意外に感じたので、強く問《と》いただした。
博士はすぐには返事をせず、例の五頭のパイプを髭の野原の中に押しこんで、やけに煙をふかしていたが、やがてやっとパイプを口から取ってつぶやくように低いことばをはき出した。
「それは言えない。わしの口から言えない。君のようなエトランジェ(異境人)には言えない」
博士は、そのことばが終るとともに立上って、両の肩をぶるぶるとふるわせた。
僕の好奇心は火柱《ひばしら》のようにもえあがったけれど、博士の沈痛《ちんつう》な姿を見ると、重《かさ》ねて問《と》うは気の毒になり、まあまあと自分の心をおさえつけた。
しかし一体《いったい》なんであろうか。この完全文明理想境を脅《おびや》かすところの、暗い問題とは。暗い問題があるということすら、僕には不審《ふしん》でならないのだが……。
僕はそれから間もなく、博士に別れた。
別れる前にカビ博士は、僕の合法的滞留《ごうほうてきたいりゅう》を政府に対してあらゆる手段によって請願《せいがん》することを誓ってくれた。
タクマ少年が待っていてくれたので、僕は少年と連《つ》れだって考古学教室を出た。
「どうです。疲れましたか」
少年は僕にきいてくれた。
「疲れはしないけれど、標本になって閉《と》じこめられていたので、気が詰《つ》まったよ。なんか気持ちがからりとすることはないだろうかね」
「ありますよ、いくらでも、本当はお客さんは、これから食事をしてそれから睡眠《すいみん》をとるといいんですが、その前に、喜歌劇《きかげき》見物でもしましょうか」
「喜歌劇だって、それはいい。ぜひそこへ案内してくれたまえ」
僕とタクマ少年は、動く道路を利用し、第十八|歓楽街《かんらくがい》のクラゲ座へ行った。
入場してみて、僕はやっぱりおどろかされた。すばらしい劇場だといって、僕がこれまで知っている、座席のきちんと並んだ大劇場を拡大したすばらしさとは違う。
場内は、森かげの草原のようであった。そこに掛け心地のいい椅子が、勝手に放りだしてあるんだ。客はそれを好きなところへ移して座をきめればいい。卓子《テーブル》を持って来れば、軽い飲物や喫煙に都合がいい。
舞台は明るく、近くなく、遠くない距離にある。いい音楽。すてきな俳優たち。出しものは三つ。第一が「タンポポはどこへ飛んで行きたいか」第二は「火星人の引越しさわぎ」そして第三は「クレオパトラの蒸留《じょうりゅう》」と、番組に出ていた。今、舞台は「火星人の引越しさわぎ」が演ぜられていて、陽気な笑いが続いていた。
客席は、朧月夜《おぼろづきよ》の森かげほどの弱い照明がしのびこんで来る程度であるから、隣の席の客がどんな顔をしているのか分りかねた。
その客たちは、熱心に舞台を見ているわけではなく、盛んにコップの音をさせたり、ぺちゃくちゃしゃべったり屁《へ》をひったりするのであった。僕には勝手のちがうこと、いや呆《あき》れることばかりであった。
それでも僕は、タクマ少年と並んでおとなしく見物を続けた。そのうちに睡《ねむ》くなって、とろとろんとしていると、かん高い女の声が耳にとびこんだので、はっと目ざめた。隣の席で、なにか言い合っているのだった。
「――いいえ違うわ、わたくしは、改造以前の人間といえども、海に棲息《せいそく》し得る特質を具備《ぐび》していると思うの。それは、あの人類は、海から陸へあがってから八千万年を経ているでしょうが、それでも尚且《なおか》つ人類は、その発生の故郷である海中生活に耐《た》える器官や本能を残して持っていると断定しますわ」
「それは一種の感傷主義《かんしょうしゅぎ》だ。もはや人類は、そういう能力を全然失っている。海中生活に耐える器官は痕跡《こんせき》程度残っているかもしらんが、海中|棲息《せいそく》の本能なんど有るもんですか」
反対するのは男の声だ。この男女二人の声に、僕はいささか聞きおぼえがあった。
平衡器官《へいこうきかん》
クラゲ座の中の、僕の座席のうしろで、喜歌劇見物はそっちのけにして、しきりに人類学について論じ合っている若い男女の声。それは、昼間、考古学教室で見かけた熱心な学生のダリア嬢とトビ君の声にちがいなかった。
両人は、僕がすぐ前に腰を下ろしていることも気がつかないほど、夢中になって論争を発展させていた。
「いや、そういう君の論は、甚だしく定量性《ていりょうせい》を欠《か》いている。退化が或る限度に及ぶと、もう器官は全然用をなさない
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