いた。
 たいへんなところへ来たものだ、ここは深い海底《かいてい》なのだ。してみると、あのホテルを出てからこっち、空だと思っていたのは空ではなくて、海底の町の天井《てんじょう》だったのか。
 ああ、息ぐるしい、海の底に缶詰になっている身の上だ――と、僕は強《し》いてそのように息ぐるしがってみたが、実はくるしくもなんともなかった。海底に缶詰になっているとは思えないほど、空気はさわやかであり、どこからともなくそよ風がふいて来て額のあたりをなでた。それにバラのようないい香がする……僕の気分は、おかげでだいぶん落ちついて来た。
「大丈夫ですか、お客さま」
 僕が立上ったのを見てタクマ少年は走りよった。
「ああ、もう大丈夫。……見物にかかりましょう」
「本当にいいんですか」とタクマ少年はまだ心配の顔で、僕を前の方へ案内し「ここから海の中が見えるんです。よくごらんなさい。魚や海藻《かいそう》だけではなく、お客さまをおどろかす物がなんか見えるはずですから……」
 僕をおどろかすものとは何のことだろう。僕は水族館の魚のぞきの硝子《ガラス》窓のようなものの方へ顔を近づけた。


   大海底《だいかいてい》


 僕は目を見はった。
 大きな硝子《ガラス》ばりの窓を通して、眼下にひらける広々とした雄大《ゆうだい》なる奇異《きい》な風景! それは、あたかも那須高原《なすこうげん》に立って大平原《だいへいげん》を見下ろしたのに似ていたが、それよりもずっとずっと雄大な風景であった。鼠色《ねずみいろ》の丘がいくつも重《かさ》なり合って起伏《きふく》している。それから空を摩《ま》するような林が、あちらこちらにも見える。
 と、その林がとつぜんゆらゆらと大きくゆれるのであった。すると林の中から、まっ黒な颶風《ぐふう》の雲のようなものが現われ、急行列車のようなすごいスピードで走る――と見えたは、よく見れば何千何万という魚群《ぎょぐん》なのであった。そしてうしろの林、これは、ポプラの木に似ているが実はそうではなく、大きな昆布《こんぶ》の林だということが分ってきた。
 雲のような魚群が、左から右からとぶっちがい、あるいはとつぜん空から舞い下りて来るように見えたり、あるいはまた急にすぐ前の硝子ばりの向こうを嵐のように過ぎて、まるでトンネルの中へ入ったようにしばらくは何にも見えなくなることもあった。すばらしく活発な魚群だった。
 大海底の住民は、魚群なのだ。
 その大海底が、ふしぎにも月光に照らし出されたように、はっきりと遠くまでが見えているのであった。あとで聞くと、これは海底全体に強い照明が行われているのだった。
「お客さん、分りましたか。向こうに見えるへんなものが何であるか、お分りですか」
 僕はタクマ少年の声によって、びっくりして、吾《わ》れにかえった。
「ああ、そうだったね。何かへんなものが見えるだろうと、君はさっきからいっていたんだね。それはどこかね」
「あそこですよ。今、鯛《たい》の大群《たいぐん》が下りていった海藻《かいそう》の林のすぐ右ですよ」
「ああ、見える、見える、あれだね。なるほど、へんなものが丘の上にある。まるで傾《かたむ》いたお城のようだが、一体何だろう」
「分りませんか。よく見て下さい」
 僕はそのお城が地震にあったようなふしぎなものをしばらくじっと見つめていた。そのうちに僕は、はたと思いあたった。
「分った。あれは沈没した軍艦じゃないか。ねえ君、そうだろう」
 僕がふりかえると、タクマ少年は無言でうなずいてみせた。
「軍艦にしてはずいぶん大きい軍艦だね。形もかわっているし、航空母艦じゃあないだろうか」
「そうです。あれは航空母艦のシナノです」
「シナノ? すると、あの六万何千トンかあったやつかね。太平洋戦争中に竣工《しゅんこう》して、館山《たてやま》を出て東京|湾口《わんこう》から外に出たと思ったら、すぐ魚雷《ぎょらい》攻撃をくらって他愛《たあい》なく沈没してしまったというあれかね」
「そうですよ」
「あんなものを、なぜあんなところへ持って来ておいたんだい」
「シナノは、あそこで沈没したんですよ」
「ああ、そうだったか。すると、ここは東京湾口を出たすぐのところの海底だというわけだね」
 僕は、始めて自分が今立っている位置を知ることが出来た。しかしなんという変りかたであろう。海底にいつの間にかこんな立派な海のぞき館が出来ているなんて。
「ねえタクマ君。あんなシナノをなぜ片づけてしまわないのかね。目ざわりじゃないか」
「そういう意見もありましたがね、しかし多数の意見は、シナノをあのままにしておいて、われわれが再び人類|相食《あいは》む野蛮《やばん》な戦争をしないように、そのいましめの記念塔として、あのままおいた方がいいということになったので
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