井は、容赦《ようしゃ》なく僕の頭をおさえつける。僕はさっきから無理な姿勢をとり首《くび》を横にまげて泳いでいるので、頸《くび》の筋《すじ》がひきつって痛くてたまらない。そのうちに鼻の孔も口も、水に洗われるようになった。いよいよ水が天井につきそうなのである。僕は、したたか水を呑んでしまった、水なんか決して呑みたくないのに。
今や僕は溺死《できし》の一歩手前にあった。顔を上に向けた。硝子天井に接吻《せっぷん》するような恰好である。そして立ち泳ぎだ。頸をうしろに無理に曲げているので、痛いやら苦しいやらで生きている心持もない。「助けてくれ」と叫びたいのだがそんな声も出ない。そんな声を出して叫ぼうものなら、たちまち身は水中に沈んで、溺死をせねばならぬ。
苦しい立泳ぎが、一層苦しくなる。浮力がなくなり、いくたびとなく、ずぶりずぶりと水中にもぐる。これ以上水を呑まないようにと息をつめるものだから、再び水面へ浮かびあがるまでの息苦しさったらない。ああ、何だって僕をこんなに苦しめるのか。
もう欲もなんにもいらないと思った。助けてくれぃだ。もう二十年後の世界に逗留《とうりゅう》する欲もなんにもなくなった。おお辻ヶ谷君よ。早く僕を時間器械の力でもって、元の焼跡の世界へもどしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、僕はここで土佐衛門《どざえもん》になってしまうであろう。
またずぶずぶともぐりこんで、そこで手足をだらんとして浮力《ふりょく》が勝って身体の浮きあがるのを千秋《せんしゅう》のおもいで待った。ようやく浮き身がついて、身体がすううっとよっていった。僕は例のとおり頸を曲げ、唇を一番高い位置へつきだして、水面へ唇が一刻も早く出ることを願った。ところが唇は水面へ出るかわりに、冷たい硝子天井に触れた。
いつの間にか、水面と硝子天井とがくっついてしまったのである。水面と硝子天井との間に残っていたわずかの空気層がなくなってしまったのである。水はついに硝子天井についたのである。ああもう吸うべき空気がなくなった。
(本当か。僕をここで溺死させるつもりか。なんという憎むべき悪魔!)
僕はもうやぶれかぶれだった。
拳《こぶし》をかためて、硝子天井をどんどんつきあげた。頭を天井にぶつけてみた。硝子天井は厚い。そんなことでは破れそうもない。僕はついに身体をさかさまにして、両脚に全身の力をこめて、硝子天井を蹴った。
ああ、それも無駄に終った。足の骨が折れそうになり、激痛《げきつう》が全身を稲妻《いなづま》のように突《つ》き刺《さ》しただけであった。
(もう駄目か。息が出来なければ僕は死んでしまう)
僕はもう気が変になりそうだ。どこかに空気のもれて来る穴がないものかと、僕は水槽の中を魚のようにもぐって、あっちの壁やこっちの底を探りまわった。だが、すべては無駄であった。
無駄と知りつつ、それでも僕は水中を、あざらしのようにはねまわった。
やがて僕は、続けざまに水をがぶかぶ呑んでいた。呼吸は苦しさを通り越して、奇妙に楽になった。胃の腑の方が苦しくなった。僕はもっと泳ぎまわり潜り続けて空気を見つけなければならないと思いながらも、僕の身体はだらんとしていた。水の層を通してあいている両眼に、うす青いあかりが入って来るのが、夢の国にいるような感じだった。
僕の知覚はだんだん麻痺《まひ》して来たんだ。
わが耳に、遠くで人がいい争っている声が聞こえる。本当に聞こえるんだか、幻想なんだか、どっちとも分らない。それは男と女との口論のようでもある。声高く笑っている。そうかと思うと、くやしそうに泣いているようでもある。
(僕はもう死ぬんだな)
僕はそう悟《さと》った。死にたくない。しかしどうにもならない。ああ神さま!
それからどのくらいの時間が経《た》ったか、僕は覚《おぼ》えていない。とにかくぼんやりと気のついたとき、僕はしきりに口から水を吐いていた。いや、正確にいえば水を吐かされていたのだが……。
遠大なる実験案
僕は、うつ向いて、水を吐《は》かされていた。
胃袋の下に、砂枕《すなまくら》のようなものがあたっていた。そして誰かが、僕の背中に、ぐいぐいと力を加える。そうすると僕は、障子がひきさけるような音をたてて、ごぽごぽと下へ水を吐くのだった。
僕には見えないが、僕の頭の上で、がやがやと喋《しゃべ》っている人声がする。それは非常に遠いところで喋っているようにも思われる。僕の知覚は、まだ麻痺《まひ》状能を脱し切っていないのである。その証拠に喋っている人声が急に遠くなったり、また僕が水を吐いていることが分らなくなって花園の中に犬を追いまわしている夢の中に入ってしまったりした。僕の身体の方々には、三重にも四重にも違った疼痛《とうつう》があって、それに耐える
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