第三日を迎えようが、四日目になろうが、痛痒《つうよう》を感じなかった。もっとも氏は、探偵猫々から夫人の隠匿場所を知らされていなかったので、その日その日に於ける夫人の安否を確かめることはできなかったけれど、氏だけの内輪話《うちわばなし》では、あの積極的な夫人からたとえ三日たりとも解放せられたことは寿命を数年間のばし得た結果となる由であった。
 そして第四日目の深更、繭子夫人はふらふらになって苅谷邸の玄関先まで戻って来た。もしこのとき、夫人を送って来た自動車が走り去るに先んじて、あやしげに警笛を三十秒間|断続吹鳴《だんぞくすいめい》しなかったとしたら、苅谷氏はベットの中で目をさましはしなかったろう。とにかく氏は警笛の異様なる響に夢を破られて、金壺眼《かなつぼまなこ》をこすりこすり玄関先まで出てみたところ、そこにふらふらになって倒れている夫人を見出したのであった。
 氏は驚愕と憐愍《れんびん》に身をふるわせ、夫人を助け起し座敷へ連れこんだ。
 それから気付け薬として、強い洋酒の壜《びん》を盃に並べて持出し、コップへブランデーとウイスキーとジンとベルモットとを注いで指先でかきまわし、長椅子の上に長く伸びて死んだようになっている繭子夫人――名探偵猫々先生の口へ持っていった。
 強烈にして芳醇《ほうじゅん》なる蒸発性物質が名探偵の鼻口を刺戟したらしく、彼は大きなくしゃみと共に生還したのであった。彼は大急ぎで自らベールをかきあげ、それから顔全体を包んでいた樹脂性《じゅしせい》マスクをすぽんと脱ぎ、瀕死《ひんし》の狼《おおかみ》が喘《あえ》いでいるような口へ、コップのふちを嵌《は》めこんだのだった。彼の咽喉がうまそうに鳴って、やがて空のコップが卓子《テーブル》へ置かれたとき、彼はどうやらものを言えるだけの元気を回復していた。
「いや、どうもひどい目に遭いましたよ。全く話になりません」
 探偵猫々は、そういいながらマッチをする手付をしてみせた。
「名探偵がひどい目にあったと仰有るからには、本当にたいへんだったんでしょうな」
 と苅谷氏は探偵に葉巻の箱を差出しながらいった。
「マッチをお持ちですか。いや、ライター結構」
 と探偵は紫煙《しえん》が濛々《もうもう》と出るまでライターに吸付いていた。
「なにしろ、私の扱った夥《おびただ》しい探偵事件の中において、今回の事件ほどひどい目に遭ったことはありません。文字通り心身共に破滅に瀕するという始末です」
「一体どうしたというわけですか。誘拐された先で、どんな目にお遭いなすったんで……」
 探偵猫々はそれには応えず、瞑目《めいもく》したまましばし額《ひたい》をおさえていた。彼はその恐ろしかりし責苦の場面をまた新しく今目の前に思い出したのであろう。ややあって探偵は目を明いた。そして吐息《といき》と共に語り出した。
「……それがですよ、苅谷さん。私は烏啼天駆に拐《かどわ》かされて、彼奴の後宮《ハレム》へ入れられちまったんです。もっとも私の役は、後宮の一員として彼奴に仕えることでなく、実は後宮の美女たちに仕える女の役を仰せつかったんです。三日間というものを、私は働かされましたよ。考えてもみて下さい、女に限りいいつけられる雑用を美女の傍近くで三日間相勤めたんですからね。身は朽木《くちき》にあらずです。いや全く幾度か窒息しそうでしたよ。生きてここへ戻って来られたのは何んという奇蹟!」
 探偵猫々は大汗をかいて怪話を語る。
「結構な話じゃありませんか」
 と苅谷氏が目を細くした。
「で烏啼天狗はどんなことをやらかして居ましたか」
「それがね予想に反しましてね、烏啼は最初私を後宮へ連れこむまでは居ました。しかしすぐどこかへ行ってしまって、それ以来今に至るまで、烏啼とは顔を合わさないのです。ですから彼奴を相手に目論《もくろ》んだこともあったのですが、そういう次第で実行にうつさないでしまいました」
「それくらいの穏健《おんけん》な勤めなら、なにも家内を隠すほどのこともなかったですね」
「いや、そうでもありませんよ、苅谷さん。大事な奥さまを一度あの後宮の空気で刺戟した日にゃ、失礼ながらあなたは永生きが出来ませんよ。――それはそれとして、私は烏啼について新しく語るべきものを持って帰りました」
「お土産《みやげ》ですか」
「正にお土産です。帰り際になると、私は女執事からこのような立派なダイヤ入りのブローチを貰《もら》いました。小さいけれどこれは間違いなくダイヤモンドです。かの女執事のいうことには、これは主人があなたへのお支払としてお渡しするものだから持って帰るようにといわれました。つまり三日間の勤務に対する代償だというんです」
「いいブローチですね」
「かねて烏啼天駆は、掏摸《すり》といえども代償を支払うべしとの説をかかげてい
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