たのですが、彼はそれを自ら実行しているのですよ。私の三日間の窒息しそうな勤労に対してこのブローチ一箇が代償なんです。これは天駆があなたの令夫人に対して贈ったものですから、そちらへお収め下さい」
といって探偵猫々はその土産のブローチを苅谷氏の手に握らせた。
事件は解決した。贋夫人にしろ、烏啼の許から返されたのであるから、繭子夫人の解放はすなわち事件の解決である――と、探偵は考えた。それで彼は苅谷氏に辞去の言葉を述べた。
「あ、待って下さい。うちの家内は今何処にいるのでしょう。家内にそういって、家へ連れ戻さねばなりません」
探偵は自分の迂闊《うかつ》を空咳《からぜき》に紛《まぎ》らせておいてから、さて主人の耳に囁《ささや》いた。
「実はその、繭子夫人を隠匿してあるところと申すのは、私の事務所なんです。そこはいつも私だけが居まして、食料品も料理の道具も揃って居り、寝具もバスもあり、一人の生活には事欠かないのです。私は夫人を私の事務所へ籠っていただいているのです。しかもです、念のためには夫人はすっかり私に変装して居られるのです。ですから御心配には及びません」
「ほう。それは意外でしたね。さすが猫々先生だけあって御名案です。恐れ入りました」
「ですから私はこれから事務所へ戻りまして、夫人をお連れして早速ここへ引返して参ります。暫時お待ち下さい」
探偵は慇懃《いんぎん》に、そして自信に満ちた声でいった。
その言葉に間違いはなかった。それから三十分間後に、繭子夫人は無事苅谷邸へ帰着したのだった。氏は安心したし、夫人は薔薇色《ばらいろ》の頬を輝かして夫君に抱きついた。
これで繭子夫人誘拐事件はもうすっかり片づいた――ようではあるが、実はまだ少し語るべきことが残っている。
4
疲れ切って自分の事務所に戻った探偵袋猫々だった。
表戸の鍵をおろし、その他あらゆる出入口は厳重に閉め切った上で、彼は素裸となってゆっくりバスの中に身体をつけた。
硝子のように青く色のついた湯の、ぬくもりが、快く彼の全身をもみ、この数日間の疲労を吸い取ってくれる。
「ええと、一番始めはどうだったかな」
彼は湯槽《ゆぶね》の中に伸び切った自分の身体をいたわりながら、この事件を頭の中で復習し始めた。それは彼のいつもの癖で、事件が終ると必ずこうするのだ。
彼の追憶は、時間の軸の上を満足すべき内容を持って辿《たど》って行った。そしてその復習が遂に終りのところまで来たとき、彼は電話の呼鈴の鳴るのを耳にした。
「はあ、もしもし……」
こういうときの用にと、傍のボタンを押しただけで、壁の中から電話器が飛び出して来る仕掛になっていた。
「こちらは苅谷ですがね」さっき別れて来た苅谷氏の声が聞えた、何だか笑いを含んだ声に聞える。
「うちの家内の告白したとこによりますとね、家内は三日間に亘り、あなたの事務所に起伏していましたが、その間ずっとかの憎むべき烏啼天狗と一緒だったといいますよ。これは先生もご存じないことなんでしょうね」
「ふうん。それは意外……」
探偵猫々は唸《うな》る外なかった。
「その間烏啼と何をしていたかといいますと、彼烏啼は家内からポテト料理の講習を受けていたんだといいます。家内と来たらポテト料理にかけては素敵な腕を持っていますからね。ポテトが大好物の烏啼がこの企《くわだ》てをするのはもっともなことで、どちらかというと遅すぎる位のものです。で、家内は最後の日には烏啼にポテト講習の免状を授けていたんだといいます。それからですね、これは言うまでもないことですが烏啼は家内へ三日間の報酬として額面六千円の小切手を寄越しましたよ。家内はほくほくしています。――それにしても烏啼がそんなところで家内を活用していることをちっともご存じなかったんですかね」
探偵猫々は電話を切ると、憂鬱いっぱいの顔になって浴室を出た。つまらん真似を始めやがった烏啼天駆だ。いくら報酬を払おうが代償を寄越そうが、賊は賊ではないか。彼奴と来たら……「待てよ」と彼は考えた、書斎へ入ってから……。
「彼奴烏啼は、この家を三日間思うままに使用したじゃないか。すると彼奴はかねての広言に従って、私に対して使用料を払うべきだ。……どこにその使用料を置いていっただろうか」
猫々はそれから家中を探し廻った。だが賊からの支払物を発見することが出来なかった。そこで彼は烏啼に対し請求書を出そうと考えた。彼は大机に向かい、書簡箋《しょかんせん》の入っている引出しを明けた。と、途端に中からぱっと飛び出して来た青い紐のようなものがあった。彼はきゃっと叫んで椅子と共に後へひっくりかえった。
一匹の毒蛇が悠々と絨毯《じゅうたん》の上を匐《は》っていた。その毒蛇の首には紙片が結びつけてあって、それには次の
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