彼女は、杜《もり》に見られるのを恥かしがり、頬をわざと膨《ふく》らまし、そして横目でグッと彼の方を睨《にら》んだ。杜にはそれがこの上もなく美しく、そしてこの上もなくいとしく見えて、ミチミの方へ身体を摺《す》りよせていった。
「ああ、また――」
ミチミは、低声《ていせい》でそう叫ぶなり、彼とは反対の方角に身を移した。彼女はいつでも、そうした。ミチミが袴をはいて学校に通うとき、杜は一度として彼女と肩を並べて歩くのに成功したことがなかった。
「誰も変な目でなんか、見やしないよ。君は女学生だから、傍を通る人は、僕の妹に違いないと思うにきまっているよ。だからもっと傍へおよりよ」
彼は不平そうに、ミチミにいった。ところがミチミは、頬をポッと染め、
「あら嘘よ。ピッタリ肩をくっつけて歩く兄妹なんか居やしなくってよ」
といって、さらに二倍の距離に逃げてゆくのであった。
二人は停留所で、勤め人や学生たちに交《まじ》って、電車を待った。杜はちょくちょくミチミに話しかけたけれど、ミチミはいつも生返事ばかりしていた。これがゆうべ、あのように興奮して、彼のふところに泣きあかしたミチミと同じミチミだろうか。
向うの角を曲って、電車が近づいてきた。
杜は強い肘《ひじ》を張ってミチミのために乗降口の前に道をあけてやった。ミチミは黙って、踏段をあがった。そのとき彼はミチミのストッキングに小さい丸い破れ穴がポツンと明いていてそこから、彼女の生白い皮膚がのぞいているのを発見した。
杜もつづいて電車にのろうとしたが、横合から割こんで来た乱暴な勤め人のために、つい後にされちまった。だから満員電車のなかに入った彼は、ミチミの隣の吊り皮を握るわけにはゆかなかった。
やがて電車は、彼の乗り換えるべき停留所のところに来た。彼はミチミに別れをつげるために、彼女の方を向いた。
ミチミは彼のために、顔を向けて待っていた。そして彼がまだ挨拶の合図を送らないまえに、
「兄さん、いってらっしゃい」
と、二、三人の乗客の肩越しにいとも朗かな声をかけた。しかし、愕《おどろ》いたことに、ミチミの声に反して彼女の眼には泪《なみだ》が一ぱい溜っていた。
「大丈夫。気をつけて行くんだよ」
彼はミチミを励ますために、ぶっきら棒な口の利き方をした。そして屈托《くったく》のなさそうな顔をして、乗客に肩を押されながら、電車を下りた。――
それが女学生姿のミチミの見納《みおさ》めだったのだ。そのときはそんなことはちっとも知らなかった。もしそれと知っていたら、どんな仕事があったとしてもどうして彼女の傍を離れることができたであろう。
そんな悲しい別れとなったこととは夢にも思わず、彼は丸の内の会社へ急いだ。彼の勤めている会社は、或る貿易商会であった。彼は精密機械のセールスマンとしてあまり華やかではない勤務をしていた。そのサラリーなども、女学校の教諭時代に比べると、みじめなものだった。しかしミチミの名を房子と変え、彼自身も松島準一と仮名しなければならぬ生活に於ては、大学卒業の理学士たる資格も、当然名乗ることができなかったから、実力が認められるまではそのみじめさを我慢しなければならなかった。でもその給料は、とにかく二人の生活を支え、そしてミチミを或る女学館に通学させて置くだけの余裕はあったのである。
午前十時ごろ、彼は支配人のブラッドレーに呼ばれた。行ってみると、これから横浜の税関まで行ってくれということだった。
杜は一件書類を折り鞄のなかに入れて、省線電車の乗り場に急いだ。そして正午まえの東京を後にしたのだった。
九月一日の午前十一時四十八分、彼は横浜税関の二号倉庫の中で、あの有名なる関東地方の大震災に遭った。
そのとき彼が一命を助かったということは、まさに奇蹟中の大奇蹟だった。あの最初の大動揺が襲来したときに、この古い煉瓦建の背高い建物は西側の屋根の一角から、ガラガラッと崩れはじめた。彼は真青になったが、前後の見境もなく、傍にあった石油缶の空き函を頭の上にひっ担ぐと、二十間ほど向うに見える明るい出入口を目がけて、弾丸のように疾走した。
大地は荒海のように揺れていて、思うようには走れなかった。出入口のアーチの上からは、ザザーッと、滝のように土砂《どしゃ》が落ちてくるのが見えた。危い。その勢いでは、アーチをくぐった途端に、上からドッと煉瓦の魂が崩れおちてきそうだった。しかし彼は一瞬間もひるまず、函を両手でしっかり掴んだまま、アーチの下をくぐりぬけた。
すると頭上に天地が一時につぶれるような音がして、彼の頭はピーンといった。同時に彼は、上から恐ろしい力で圧しつけられて、ドーンとその場に膝をついた。どうやら煉瓦が上から降ってきたものらしい。膝頭に灼《や》きつくような疼痛《とうつう》が感
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